アセクシュアルなのか、それとも「愛着」に問題があるのか
自分に「恋愛感情がない」と気付いたときに、それに名前を付けたくて色々と調べました。そのときにアロマンティック・アセクシュアルを知り、今、自認していますが、この調査時にもうひとつ「これじゃないか」と思ったものがあります。それが「愛着形成に問題がある」です。
そして未だに、もしかしたらアロマンティック・アセクシュアルではなく、愛着形成の問題としてアロマンティックを包括しているのではないかと疑っています。今回はその辺りをちょっとお話しします。
愛着形成の問題とは?
前提として、私は心理学者や精神科医ではありません。なので、愛着形成に関する問題の話は、私が読んだ本やネットで集めた情報を総合したものになります。それはご了承ください。
愛着形成の問題とは、大雑把に言うと「子供の頃に親から正しい愛情を受けずに育った子供は、正しく人を愛せない」ということです。虐待されたり、親がまともにコミュニケーションをとらなかったりした子供は、社会や集団に馴染むのが難しくなります。結果、仕事が続かなかったり犯罪に走ったりするケースがあるようです。彼らは「他人への正しい接し方・愛し方」を親から教わっていないので、それが分からずに的外れなことをしてしまい「生きにくい」と感じることが多いのだとか。なので、子供が「自分が何をしても親は味方である」「無条件で愛されている」と思えているかが、子供のその後に人生において非常に重要なのだそうです。正しく愛されていれば、正しく人を愛せる人になります。
私は漠然と「生きにくい」とは感じていました。しかし、私の家はごく普通の家庭で、虐待をされたことはありません。学校もちゃんと行かせてもらって、ご飯も食べさせてもらっていました。よく犯罪を犯した人の悲惨な幼少時代がニュースなどでクローズアップされますが、そういったことは一切ありませんでした。
当てはまる内容が多かった「回避性愛着障害」
自分の生きにくさに名前をつけたくて色々調べているときに、アロマンティック・アセクシュアルと同時に「愛着障害」を知りました。詳しく知りたくて、精神科医・岡田尊司先生の「回避性愛着障害~絆が稀薄な人たち~」という本を読み、怖いくらいに自分が当てはまっていました。
回避性愛着障害とは「愛情を欲しているのに、裏切られて傷付かないために愛情を回避する精神障害」のことです。特徴を挙げると、
他人と親密な関係を築けない
親しい人にも本心を明かさない
人に頼れない
人との関係を「利害」で考える
責任のある仕事や立場を避ける
生きること自体が面倒
などなど。どうやら「幼少期に自分の望む愛情を養育者から受けられなかった人」は上記のような傾向があるようです。「望んでも叶わないと分かっているから、最初から望まない」という心理状態ですね。
ちなみに挙げた6つは私が全部当てはまっている内容です。本の最後にチェックリストがあり、自分の愛着スタイルを確認できるのですが、私は「回避性愛着障害の傾向がかなり強い」と出ました(正確に言うと「障害」は日常生活に支障をきたすレベルのもの。私はそこまでではないので、その傾向が強いに過ぎません)。
この本を読んで、私は今まで「普通」と思っていた親との関係性を、ちょっと考えてみることにしました。で、そのときに思い出したのが「私は親にほとんどスキンシップをされたことがない」ってことだったんです。というか「母に嫌われるのが怖くて、私が自らスキンシップを拒否していた」というのが正しいかもしれません。
「お姉ちゃん」でなければ母の邪魔なのだと認識した2歳の私
私が自ら親とのスキンシップを拒否したのは「お姉ちゃんでなければ、母に捨てられる」という認識があったからです。
私には2歳年下の妹がいます。妹が生まれたとき私は2歳なので、そのときの記憶はほとんどありません。ただ、今でも鮮明に覚えていることがあります。それが、妹をあやしている母に抱っこをねだって「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」ときつく言われたことです。
大人になってからよくよく考えると、母は生まれたばかりの妹に手いっぱいで、私を抱っこしている余裕なんてないんですよ。でもそのとき私は「お姉ちゃんは我慢しなくちゃいけないんだ」「我慢しないお姉ちゃんは邪魔なんだ」と一瞬で理解しました。母からは「無条件の愛情」を受けられないと、2歳にして悟ったのです。
それから私は、抱っこをねだることを一切しなくなりました。母に「抱っこする?」と聞かれても、本当はしてほしいのに「しない」と答えました。そうしないと母の邪魔になると思っていたからです。それ以外にも、私は「母の邪魔になることはしない」「母の期待に応える」のを徹底しました。そうしないと、母から愛されないと思っていたからです。私が母を愛していたのではなく「誰かから愛されたかった」、それが母だっただけなのだと思います。
両親は私がそういうネガティブな感情で期待に応えていたことを、未だに知りません。「もうこの人たちのために頑張りたくない」「自分のためだけに生きたい」と限界が来ていた私が、壊れる前に家を出て、それ以降は仕事などを理由にほぼ家に寄り付かなくなったからです。
もしかすると、これが私にとって愛着を正しく形成できなくなるトリガーだったのかもしれないと、考えることがあります。
家族は「血の繋がった他人」
私は今でも家族の前では「家族の認識する姉の私」を演じています。私にとって家族とは「血の繋がった他人」であり、一番迷惑を掛けたくない人たちです。家族といるときには「この家で演じてきた『姉』としての役割を果たせているか」を考えなければならないので、非常に疲れます。2年前に母が亡くなり、こういうことを言うと冷淡な人間だと思われるかもしれませんが「これで私は『お姉ちゃん』から解放されるのか」と、むしろほっとしたくらいです。母が亡くなってからは、実家に帰る必要性がなくなったので、正月だろうが盆だろうが、実家には寄り付かず、家族ともなるべく連絡を取らないようにしています。これで、非常に楽になりました。
つまり私は、家族にすら「愛情」を持っていないのです。もちろん「親が味方になってくれる」「無条件で愛してくれている」とは思っていません。例え借金地獄に陥ろうが、何か大きな問題に巻き込まれようが、両親や兄弟には頼らないと決めています。彼らにとってそういう問題を起こす私は彼らの知る「私」ではないので、助けを求めても助けてくれません。
こういう「誰かに助けを求めても、どうせ助けてもらえない。期待して傷付くよりは最初から期待しない方が良い」という思考回路は、回避性愛着障害の特徴だそうです。
愛着問題が、アロマンティック・アセクシュアルを包括している?
ここでタイトルに戻るのですが、つまるところ私は、人に対しての「愛情(というか感情)」が非常に薄いのです。人に期待をしていないので、付き合ってほしいと言われても「私が理想の彼女じゃなかったら、別れようって言われるんだろうな。いつかは嫌われるだろうな。だったらこの人にとって、私と付き合うのは時間の無駄だよな」という「できなかったときの論理」が最初に来ます。仮に理由があって付き合ったとしても、愛情で付き合っているわけではないので、愛情で付き合っていると思っている相手とすれ違いが生じます。
そこに性的興味が薄いことも相まって、私のアロマンティック・アセクシュアルは、私の抱える愛着問題の中に包括されているのではないかと考えることがあります。愛情が理解できない、だから恋愛感情もないのだと。
最後に
仮に私のアロマンティック・アセクシュアルが愛着の問題に包括されているとしても、今では結構どうでも良いと思っています。仕事上、ネガティブな感情の方が良い作品を生み出す力になりやすいですし、今の仕事はむしろこういう問題があったからできているのだとも思えています。
それと、これはあくまで私の話です。多くのアロマンティック・アセクシュアルの方は、私と違って家族愛や友情はありますし、感情をきちんと持ち合わせています。私のような感情が欠けた冷淡な人間ではありません。素晴らしい人たちがたくさんいます。そこは、勘違いしないでほしいところです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?