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「誕生日が嫌い」と言っても、意外と周囲は優しい

唐突で申し訳ありませんが、私は自分の誕生日が嫌いです。世間一般では、誕生日って周囲の人たちが祝ってくれる喜ぶべきもの、祝われなかったら「自分は大切にされていないのか」と悲しくなるものだと思うのですが、私はむしろ「祝われるのが苦痛」でした。
地方に住んでいると同調圧力が酷いので「誕生日が嫌い」なんて言おうものなら「せっかく親が生んでくれたのに!」とか「生まれたことが幸せだ」という狭い価値観の返答しかないと思ってたのですが、私を「面白い」と受け入れてくれた人たちは、案外優しかったです。
アセクシュアルの話ではありませんが、今日はその辺をお話ししようかなと思います。

自分の誕生日は「迷惑をかける日」だと思ってた

私が誕生日が嫌だなと思っているのは「迷惑をかける日」という意識があるためです。
2歳のときに母に甘えることを拒絶されてから、私は「良い姉」であること、「母の期待に応える良い子」であることを徹底してきました。しかし、したかったからしていたわけではありません。多分生存本能のようなもので、親から見捨てられたら生きていけないことを悟っていたので、必死に嫌われないようにしていただけだったのだと思います。とにかく「迷惑をかけないこと」が、私が親から捨てられない条件でした。

親は私の誕生日を毎年祝ってくれたし、自分が家族の異物であることに耐えられなくなって家を出てからも、母は毎年誕生日にメッセージをくれました。
でも、私はそれを全く喜べませんでした。誕生日を特別な日にすることで、余計なお金を使わせている、私のことを考える時間を使わせている。ただでさえ、4歳のときに厄介な病気に罹って治療費・入院費を使わせました。その間、母は付きっ切りで看病せざるを得ず、仕事にも行けなかった。もし私が厄介な病気に罹らなければ、その分のお金や時間を妹や弟の教育に使えたはず。そういう自分のためにお金も時間も使わせることが、ただただ申し訳なかったです。

誕生日が決定的に嫌いになった「サプライズ」

そういう私が「あ、やっぱり誕生日無理」となったのが、彼氏からの「誕生日サプライズ」でした。
当時、フリーランスとして安定的に働くため、人脈を広げることに躍起になっていた私は「普通」になるために、彼氏を作りました。私はアロマンティック・アセクシュアルなので、当然彼に恋愛感情を持っていたわけではありません。ただ「29歳で恋人がいたことがなく結婚願望もない人間」が地方では排除されることを知ったので、仕事をもらうために「普通」を演じることが必要でした。彼氏はそのための手段。ありがたいことに「29歳で彼氏がいる」という外面を固めているだけで、周囲は勝手に「普通」と判断してくれました。
ただ彼は一切それを知りません。告白をOKしたのだから、私も彼を好いていると思っていたのだと思います。私も彼に嫌われたらまた周囲から「普通じゃない」認定をされて仕事がしにくくなるので、ひとまず私が信用を得て地固めができるまでは、彼氏でいてもらおうと思っていました。

そういう彼と、ある日食事に行きました。いつも通りだったのですが、メインが終わったあと、デザートに店員さんがケーキを持ってきてくれたのです。そこには「お誕生日おめでとう」のプレート。同時に彼と店員さんがバースデーソングを歌い始め、それが店内に波及して、いつの間にかお店にいるお客様全員が、バースデーソングを歌い始めました。

彼としては、私が喜ぶと思ってしたことなのでしょうが、そのとき私が感じたのは、すべての席に土下座をしたあと、腹を切って詫びたいと思うほどの罪悪感でした。
皆、自分の家族や友人、恋人と食事を楽しんでいるというのに、どこの誰とも知らない赤の他人のバースデーソングを歌わされるなど、迷惑でしかない。しかもサプライズだったために、私は彼の望む反応をできなかったと思います。彼は喜ぶ私を期待したと思うのですが、サプライズのせいで一瞬本音の表情が出ちゃっただろうなと。店内中にバースデーソング歌われてる間は、マジでこの世の終わりのような気分でした。

これが「誕生日が嫌い」と決定づけることとなりました。まぁ、彼はそもそも私が誕生日が嫌いなことも、アロマンティック・アセクシュアルであることも、私がただ自分の望む仕事をするための手段で付き合っていることも知らなかった。だから仕方ないのかなと思います。
ただこれ以降、またこういうことをされるのではないかという恐怖で、私は彼と距離を置くようになりました。結局、私が普通でなくても受け入れてくれる人たちに出会って、望むような働き方ができるようになったことで、彼は必要なくなった。そのため、この件からしばらくしてお別れしました。

「本質」を考えることの大切さを知った彼女の返答

私を受け入れてくれた人たちは、私が「変」でも全く気にしません。「そういう考え方の人もいるよね」というスタンスで、別の価値観を持っている人を否定しない。それどころか、面白いという感覚で色々聞いてくるくらいです。
あるとき、私は誕生日メッセージをくれた人に、思い切って「誕生日はあまり好きじゃないので、私の誕生日はもう祝わなくて良い。メッセージもプレゼントもいらない」と言いました。理由を聞かれたので「誰かに気を使わせるのが申し訳ない」と答えたら、次のような返答がありました。

「そっか。分かった。一葉さんが嫌ならやめるね。ごめん。
私も誕生日を一般常識で勝手に考えてたけど、どういう意味があるのかって深く考えたことなかった。そういうのに疑問を投げかけるのが、一葉さんの仕事だもんね。
誕生日って皆、自分が祝われることしか考えてないのに、そこで他人のことまで考えられるって深いし、すごいと思う」

私はこの彼女の返答で、自分が変でも構わないのだと思えるようになりました。そもそも私にとって「考えすぎ」は当たり前。自分が深く考えているという自覚がこのときまでありませんでした。ただ周囲が、いわゆる「普通」に唯々諾々と従っていて、私が「なぜ?」と疑問を呈せば「普通だから」という返答しか返ってこない。誰もが「本質」を見ていないことに、ずっともやっとしていました。
彼女の返答で「本質を考えることの大切さ」を気付かされたような気がします。

実は意外と義務感でやってる

彼女の返答を受けて、私は誕生日を非公開にしてみました。すると、誕生日のメッセージがぴたりと止んだんです。それで意外と皆、私の誕生日を祝いたくてやっているわけではなく「誰かの誕生日は祝うもの」という義務感でやっていることが分かりました。
それから非常に気が楽になりました。ずっと「迷惑をかける日」だった誕生日が「何でもない1日」になってくれたからです。
今では誕生日を聞かれても「祝われるの好きじゃないから、教えられない。ごめん」と素直に答えています。意外と「あ、そうなんだ。変わってるね」くらいで済みます。というか、私がつながりを持ちたいと思う人は、あまり私の誕生日を気にしません。彼らが欲しているのは私ではなく「私の能力」であり、私の誕生日はそもそもどうでも良いのです。誕生日をしつこく聞いてくる人は、私の能力ではなく「私」を求めている人だと思うのですが、そもそも私に「私」はありません。だから、そういう私を求めている時点で人間を見抜く力がないと思うのです。

私の誕生日を祝うのは私だけが良い

誕生日は生まれたくなかった自分が1年頑張った生きた日ではあるので、私は自分の誕生日には自分でちょっと良いケーキを買って自分を褒めています。私にとって誕生日とは、あくまで「自分が頑張っただけ」なのです。それを「普通だから」という理由で他人に祝わせるのは、なんか違う。
「生まれてきてくれたことを祝いたい」みたいな理由を付けることはありますが、他人の生命に自分の幸せを結びつけるのもどうなのか。自分の生で、自分の幸せを感じてほしいと思うのは、私だけなのか。

毎年誕生日になると、誕生日の本質について考えさせられます。





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