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【妖剣、邪剣、終夜─ようけん、じゃけん、よもすがら─】
都内の当流剣術、柏木館食客の嵯峨倫太郎は遅めの昼餉に取り掛かっていた。
主菜は薩摩芋と油揚げの炊き込み飯。薄茶に染まる米は艶やかに輝き、ふっくらした油揚げは旨味を主張するように汁が薄らと染み出し、芋は肉厚の身が黄金のごとくありありと。
副菜は鮃の味醂干し、豆腐。狐色の焦げ目は醤油の香ばしさを漂わせ、裂けた身からは脂が乗った白身が顔を覗かせている。
味噌汁は豆と白の合わせ味噌。葱の小口切りに凍り豆腐、油揚げ。しっかりとられた出汁の香りが鼻腔を擽る。
しっかり諸手を合わせ、食材、厨の方々、世話になっている道場の師範門人、あと諸々──に感謝の念を。いただきます。
箸で米を掴み、口へ。やや固めの米とほくほくと炊けた芋から素朴な滋味が染みだし、舌を労るようにふんわりと旨味がまつわる。
嵯峨の冴えない風貌に、笑みが浮かぶ。
やや伸ばしっぱなしの髪は脂で汚れ、細い顎には堅めの髭が斑に伸びており、食い詰め浪人のようなだらしなさを漂わせている。枯れ葉色の着流しも程好く草臥れている。
令和どころか、平成から明治に遡ろうと中々見掛けること叶わぬ出で立ちの嵯峨。柏木館の師範と、いわゆる『剣友』というものであり、その縁に縋って道場に住み込み、食だけ融通してもらい、日雇い仕事で糊口を凌ぎながら、たまに門人へ稽古をつける──という、捨て鉢な生活を送っていた。
旨い飯を食い、たまに暗鬱な気持ちになる。
もう若いとは云えぬ男が、定職もなく、飯を他人に集るような真似をして──。
だが嵯峨には、つまるところ、日常を送る才能がなかった。
剣腕甚だしくも、それ以外は全く。生まれる時代を間違えた──と、自分も他人も思っている。
だが生まれてしまったのだから、どうしようもない。
そして……どうしようも無かろうと、心は痛む。
胸のつかえを、飯とともにおし流そうとした矢先に──。
「先生っ!」
部屋の襖が開け放たれた。
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柏木館の、正門。
門人らがすでに集まっていた。
彼らが囲っているのは、師範代の須藤練士。
正確に表すならば、須藤練士の成れの果てであった。
撫で付けた白髪は美しい銀と、黒ずんだ朱に染まり、皺が入り始めた顔は苦痛と驚愕に歪み、白濁した眼球は各々あらぬ方向に向いている。
異様なのは、その遺体。
右肩から左腰まで、『両断』されていた。
贅肉がつき始めながら、鍛えられ縅のごとくある肉も、堅く柱のごとくある骨諸とも。
黒服──後で知ったが、都内武林を牛耳る『日本古流振興連盟』の連盟員──が、手を合わせ黙祷し、須藤練士の遺体を片付ける傍らで、恐らくは下手人と思しき青年が、その様を見ていた。
笑みを浮かべているが、眼に侮蔑の色はなく、宛ら稽古をつけてもらった門人の如く溌剌としており、それゆえに不気味であった。
胴衣から覗く腕は隆々。走る血管はまるで縄の如くあり、尋常ならざる膂力を予感させる。
門人は涙を浮かべ、歯を食い縛らせながら青年を睨む。手にした居合刀が戦慄いているが、黒服らが制すように視線を投げ掛け、また、威圧するように腰の差料──恐らくは、真剣──へ手を添えていた。
柏木館師範、安堂造酒夫も、すわ青年へ斬りかかりそうな殺気を放っているが──肺腑へ怒りを呑み込み、しかし、抑えきれぬ殺意を身体へ漲らせ、門下生らを手で制した。
そんななか、嵯峨のみが須藤練士の切り口を冷徹に観察し、そして、無念そうに眉をしかめた。
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「仇討は認められん──か」
「ああ。須藤先生には申し訳ないが、若人の手を、血で染めるわけには……」
夜、私室で嵯峨と安堂は膝を突き合わせ、須藤練士へ献盃していた。
「須藤先生の、ご家族は……」
「──一昔前、震災で奥方も御息女も亡くなられたそうで……。親類も疎遠、だと聞いてたよ」
「そうか」
嵯峨の脳裏には、須藤練士の笑顔。
叱ることはあれど怒鳴りはしない、理を以て門人を鍛える、穏やかなお人だった。
親身な姿勢を慕う門人は多い。家族がおらぬ故だったのか──と、嵯峨は追憶した。
「……安堂」
「……?」
「俺に、須藤先生の仇を討たせちゃくれねえか?」
「──嵯峨君」
躊躇いがちな安堂を、嵯峨は手で制す。
「俺は食客だし、門人の仇討にはあたらんだろう。──それに、俺も須藤先生を慕っている。あの方は、あんな死に方が許されるお人じゃねえよ」
「……なあ嵯峨君、きみがうちの道場に世話になっているからと言って──」
「莫迦、それとは話が別だ」
頬杖を突きながら、頬へ爪を突き立てる嵯峨。やや力が入り、手に血管が浮く。
「こうでもしねぇと、俺ぁ……ますますこの世に生まれた甲斐が無い」
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須藤練士を屠った剣士、新発田悠一は正道の剣士ではない。
古流道場で手解きを受けたわけではなく、新発田家の父や祖父、親類から教わった剣術を用いる剣客である。
新発田家の庭、眼前にあるのは寝かせた巻藁。
青竹を背骨に、水を充分含んだ畳を肉に見立て、それが縦に重なること──七つ。
正眼に構えた新発田。
腕はますます隆々とし、尋常ならざる鍛練の産物であると主張している。遠山の目付よし、調息に滞りなし、さながら自らを一振の刀と為したかのような、気迫。
振りかぶり、藁へ唐竹を放つ。
一つ、二つ、三つ、四つ──。
まるで豆腐に箸を刺すように、容易く巻藁も、堅い青竹も斬れて行き──。
最後の七つ目。
巻き藁は一切の斬り損じ、束の残し無く、真っ二つ。
新発田の扱う剣術に、名前は無い。
だが敢えて名付けるならば、『山田流』。
かつて浪人でありながら、幕府より身分を安堵され、優れた剣腕で刀の様物を行った剣士──。
御試御用、山田浅右衛門。
その弟子らが連綿と受け継いできた奇形剣術。
『山田流試斬術』の継承者の一人こそ、この新発田悠一であった。
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夜の帳が降りた都内。
繁華街はけばけばしい人工の光に彩られ、訪れる人々を毒するかのように照らし、色濃く影を落とす。
しかし……住宅街の、さらに外れ。人通りも疎らで、開発も進まない区画は、申し訳程度の街灯が淡く闇を照らし、建物や偶さか通りかかる人々の輪郭を曖昧に映し出していた。
月の青い光すら遮る闇夜、嵯峨と新発田の立ち合いは空き地で行われた。
二人の他に人は無く、周囲の家屋に人の気配なし。再開発の頓挫、老朽化による転居──。時代に置き去りにされた、成れの果てが此処である。
「やる前に──」
「はい?」
「一つ、聞いておきてぇ」
髪を後ろに撫で付けた嵯峨が問う。声音には人らしい感情は含まれておらず、無機質で冷たい。衣服は爪先まで黒一色。差料もまた、柄巻に柄革、柄頭に至るまで漆黒である。
「なぜ、須藤先生を斬った」
新発田は、邪気のない笑みを崩さない。
「須藤先生が、正道の剣士だからです」
「……」
「お互い、立ち合いの前に連盟から聞かされたかと存じます、嵯峨先生」
「──山田流か」
新発田は頷いた。
「山田流試斬術こそ、僕が唯一持ち得る新発田家の遺産。だのに……」
頬肉を吊り上げ、目尻を弓形に歪ませ、言葉に熱を込めて新発田は宣う。
「時代は令和。剣どころか棒きれさえ振るうには不適切な時代。修めたのが正道の剣術ならば、まだやり様はあった……」
しかし、修めたるは様物。明治の世にはすでに命脈断たれた異形の剣。活かすことなど、どうあっても──。
「血尿を垂れ流し、肉を裂き骨を砕き、父も、祖父も、先祖も練り上げてきたのです。そして、今、僕のうちにコレがあるならば、今の時代までこの技が生き残った"意味"があるはず!──正道の剣士を破り、屍の山の頂に、我が試斬術が当たるべき日溜りがある筈なのです……!」
嵯峨の瞳に、悼ましさが宿る。
鯉口を切る音が、闇にこだました。
「理由は解った。……アンタの、その思いの是非はわからんが──」
両者の間にある空気が重圧に、粘り気を帯びてくる。夜の闇が濃くなるような錯覚を引き起こす。嵯峨の眼光は、まるで霧中の彼方で煌めく刃の如く、研ぎ澄まされていた。
「俺も『似た者同士』、お前さんを生かして帰す訳にぁいかなくなったよ」
嵯峨は鯉口を切ったまま、右肩を相手に向けて、左半身を相手から隠すような異形の構えを取る。
──新発田は見逃さない。嵯峨の本差の刃が、炭で黒く塗られているのを。
(まるで闇に溶け込むようだ──)
新発田の右手が、柄に伸びた。
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嵯峨の修めた剣術の名は、『平口流上意礼法』。
開祖である近江浪人、関重三郎は甲賀忍者の末裔である。
流れ着いた小藩で、家老格の剣術指南役を賜り禄を食んでいたが、実際には上意討、藩主私憤による闇討などの陰働きをしていた。
扱う技は妖剣、奇剣の類。
表に出すこと憚られる邪道の数々。
故に蛇蝮。平口流上意礼法。
細々と受け継がれるこの剣を、嵯峨は皆伝にまで至る。
嵯峨もまた、正道の剣士ではなかった。
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平口流上意礼法の技に、『隠刃』というものがある。
昔、灯りも乏しく夜の闇が真に人々の姿を隠していた頃のこと、夜闇に溶け込む衣服に身を包み、刀にも炭や顔料で闇の偽装を施し、雪駄を脱ぎ足袋で音もなく接近し、相手の死角から斬りかかる技。
仕留め損なおうとも、闇に紛れて寸法も斬り口も読めぬ刀との立ち合いに、正道の剣士は疲弊し、悉く刀の錆と化した。
そして、妖剣『飯綱』。
鎌鼬より着想を得た、間合いの外より相手を斬る謎の技。
そも鎌鼬というのは、風に巻かれたら知らぬ間に切り傷が増える現象のことであるが、外気との寒暖差により生じる皮膚の裂傷とも、大気で巻き上げられた木片や石片による裂傷と言うのが通説である。
そして妖剣飯綱とは、刃で地を穿ち、天へ擦り上げるように振るい、礫を飛ばして隙を誘う、いわゆる『嚇し』の奇剣である──と考えられている。
いずれも、刀の寿命を削る邪道の剣。
嵯峨は、"そこ"に工夫を加えていた。
いくら閑散とした街であろうと、街灯技術が発達した現代であれば、真の暗闇はなく、黒装束、黒塗りの隠刃を持つ嵯峨も、薄らとその姿を顕していた。
新発田の鯉口が鳴る。嵯峨の姿勢から抜付が来ると踏んで、自らも抜付で挑む心積りである。
抜いて、斬る。
──この動作において、山田流試斬術の右に出るもの、無し。
刀であろうと、鎧であろうと、全て斬り折り捩じ伏せてきた。祖父から、父から、『斬』の一念が鈍らぬよう殴撃蹴撃の嵐を受けながらも、一刀にて対象を狂いなく斬れるよう、据物斬の腕を磨いた。
すると──どの点目掛け、どれほどの力で打ち込めば、どれだけ裂けるか。見立てが利くようになった。
後は巻藁斬と大して変わらず。男も女も老いも若きも、開きにしてきた。
その剣筋を、『兜割』。
武界到達点のひとつに、論理ではなく、ただ愚直に鍛え上げた肉体にて至る。
故に余人はこう唱う、邪剣『兜割』。
互いの間にある空気が張り詰める。新発田、嵯峨、共に体に進発の起こりあり。
──来る。
互いに、相手からの攻撃が来ると本能で理解する。
新発田が、刀を抜いた──。
「…………?」
瞬間、新発田の水月に刺さる脇差。
刀を半ばまで抜きながら、弓形に歪ませた瞳を剥き出す新発田。
嵯峨を見ると、未だ抜刀には至らず。しかし反転したかのように、左半身を前に出し、右半身を相手から隠す姿勢。足袋のみの左足は、膝当たりまで上げられていた。角帯には本差と、鞘のみの脇差。
***********************
──新発田には見えていなかった。
嵯峨は刀を抜くと見せかけて、新発田から隠していた左半身──その足裏で掴んでいたむき出しの脇差を、脚力で投擲した。
闇夜に薄らと見える、黒塗りの刀に意識を向けさせ、足裏での投擲という"奇行"で意識の空白を作り出し、飛刀術で仕留める。
代々の平口流剣士は、同じく半身を隠した構えから片手抜刀を放つと見せかけて、小柄を投げて相手の隙を誘い、闇討を為していた。無論、先の礫飛ばしも含めて、これこそが妖剣である──が。
開祖、関重三郎の妖剣は違った。
甲賀忍者に伝えられし、足裏での曲芸のごとき飛刀術こそ、本来の妖剣『飯綱』。
嵯峨は、開祖と同じ天稟と身体能力を有しているからこそ、『飯綱』の完全再現が成ったのである。
術理ではなく、本人の才能にて成立する魔技。
紛れもなく、『飯綱』も妖剣だった。
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主要臓器を傷つけられ、喀血し服を朱に染めながらも、新発田は踏みとどまる。
よもや、刀を抜く前に終わるわけにはいかない──!
正道の剣を打ち倒す。生まれながらに陰へと追いやられた一族の生涯に意味を持たせる。
それらが叶わぬとも、せめてひとかどの剣士として、一太刀報いる──!
一意専心、もはや怨念として成り立つそれが新発田の筋肉を膨張、硬化させる。嵯峨──いや、『据物』を斬るという、細胞にまで染み付いた行為は思考を超えて、細胞自体が神経を超越し、死にゆく身体を動かした。
遠山の目付、よし。
調息、肺の筋肉が本能で必要な空気を取り込み、全身の肉が普段通りに作動し、滞りなし。
意思、己を刀だと思い、巻藁を断つ──。
残りの命を振り絞りながらも、『斬る』という一念のみが全てを支配する新発田の心中は、偶然にも明鏡止水に至る。加えて、死してゆく身体に無用の起こりなく、最適な力加減となっていた。
心技体、命を引換にして放たれた剣。
新発田生涯最高の唐竹。
山田浅右衛門を越えうる最高の一閃。
嵯峨は、あっさりと新発田の懐に入り込み、自らの当て身を梃子として、その身体を投げ飛ばしていた。
柏木館にて伝授される、基本的な柔術であった。
──剣で、すら……!!!
視界、記憶、感情が流転するなか、新発田はまだ──まだ、『斬』の一念を捨ててはいなかった。しかし、もはや執念が肉体の損傷を凌駕することは叶わず、新発田は地に叩きつけられると同時に、冥府の坂を転げ落ちていった。
***********************
「嵯峨君──」
朝餉を摂る嵯峨と安堂。新発田との決斗より三日後のこと。
副菜の皿と味噌汁の椀は既に空。嵯峨は僅かに米の残る椀に昆布茶を注いでいた。
「考え直さないかね」
「いんや……」
茶と、ふやけた飯を啜る音。香物の沢庵をかじる音が虚しく響く。
「仇討とは言え、真剣勝負で他人様の命を奪っちまった。散々飯の世話してもらって何だが、もう俺には柏木館の敷居を跨ぐ資格は無ぇよ」
安堂は唇を引き結び、友人の言葉に対する反論やなぐさめを考えたが──結局、何も浮かばなかった。
「……それに、飯がな」
「──めし?」
安堂は嵯峨の膳を見た。一切の食べ残しもなく、茶碗に米粒のひとつもなし。
人を殺めてから、味が解らぬ、喉も通らぬ──という言葉を想像していた安堂は、すこし呆けたような表情をする。
「人を殺めてもなお、飯が旨い」
ぱちり。
箸を置く音が、やけに大きく響くように感じられた。
「そんな病んだ野郎が、正当な剣術道場に長居する訳にゃいくまいよ」
【了】
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