
雷閃、残響。
それは令和の世にあって、尋常ならざる事態であった。
都内某所、人通りを排した区画の寂れた寺社。土くれで汚れひび割れた境内に、枯れた葉が敷き詰められた石畳。朽木で作られた社は苔むして、時折家鳴りがこだまする。
腐葉土の隙間からは、ちいさな蟲の群体が、冬眠できず果てた大きな蟲の足を、頭を、羽を、よってたかって毟り取る。
袴姿にたすき掛け、腰に反りの浅い肥後拵の大小を差したるは、男子か女子か判断のつきづらい顔付き。鼻筋が通り、唇の肉付きは薄く、肌の白い細身の剣士。
しかし境内に座したる剣士の気は澄みながらも鋭く、死角からの一撃に対応できるよう、爪先のみを地につけた正座の姿勢であった。
剣士の正面には、道路から社に至るための階段。剣士の両脇には黒い背広を纏う「日本古流振興連盟」の連盟員、二名。
時折吹きすさぶ寒波に身動ぎすることなく、剣士は階段。──いうなれば、階段の彼方より来るであろう相手を見詰めている。風鳴りが静謐の場に響き渡る。
微かに、石畳を踏む雪駄の音。
耳の中に響く心音が大きくなる。それと同時に雪駄の音はだんだんと大きく、質量を増し──。
がさり、と──枯れ葉を踏み砕く音。
濃い茶色の羽織袴に懐手をした剣士が、不敵そうな髭面を笑みに歪ませ立っていた。
肺に溜まる空気を静かに吐き出し、たすき掛けの剣士は立ち上がる。耳鳴りは、すでに収まっていた。
「待たせたかね」
「いいえ、私も数分前に来たばかりです」
たすき掛けの剣士が応える。凛とした低音で
ようやく男子だと判る。
羽織袴の剣士は、無造作に羽織を脱ぎ捨てた。紋無しの着物に、大小の差料。四角の透かし鍔。柄頭の牡丹獅子が睨み付けてくる。
双方を確認した黒服がたすき掛けの剣士を向く。
「弥上兵法免許、吉永君」
「はい」
今度は、髭面の剣士。
「日下派神道流組太刀術免許、桑津流君」
「応」
「日本古流振興連盟の名の元、双方一対一による真剣勝負を監督する。互いに信を置き、遺恨無き立ち合いを望む。勝敗如何にかかわらず、双流派の又仇による真剣勝負は禁ずることとする。よろしいか」
吉永、桑津流、共に頷く。
吉永の脳裏には、過日、この立ち合いに至るまでの記憶が繰り返し、残響のごとく映し出されていた。
***********************
弥上兵法の道場、鏡面のごとき檜の床が朱に染まる。
苦悶の声、脂と血で曇る白刃、睨み合う自身と、桑津流。
門下目録位、柳井の胴着は切り裂かれ、腕から指にかけて鮮血が滴る。当たり処が悪ければ、剣を握ること叶わぬ刀傷であった。
「どうしたどうした弥上兵法!この程度か?」
桑津流の声が響く。他の門下生の顔が恐怖と怒りに染まる中、吉永はただ冷静に桑津流の運剣を見ていた。鯉口はすでに斬ってあり、右手は刀の柄に触れるか触れないか──。互いの一足一刀の間合いに入らぬ距離を保ったまま、視線のみが交錯する。
「無作法ですね。警察がじきに来ます、無駄な抵抗は──」
「来ねぇよ」
唇を引き結ぶ吉永。くつくつと喉を鳴らす音。
「連盟に"届出"を出してきた。単独の斬り結びであれば、師匠連がお上を抑えてくれるってな」
連盟──日本古流振興連盟の影響力を知らぬ者はいない。一般市民への辻斬りや道場間の大規模抗争ならまだしも、剣客同士の斬り合いであれば、連盟が各機関に圧力をかけてもみ消すことは容易である。
それを知りながら、実際に平成すら過ぎた世の中で真剣勝負を挑む古流剣士が居るかどうかと云えば──考え難いことではあった。
「──なぜ、真剣勝負なのですか」
「剣客だからよ」
狼が牙を剥き出すがごとく、口の端を吊り上げる桑津流。
「人の命を簡単に左右出来る技を修めたならば、正邪に依らず使いたくなるのが剣客のさだめ。お手前ァ、そうじゃ無いのかい?」
「──弥上兵法では、他流との試合は禁じております故」
「じゃあ全員斬って棄てるかね?」
刹那──。
首筋に冷たい気を感じた桑津流は、無意識に剣を担ぐ『蜻蛉』の構えに直る。吉永の眼に、鋭利な気迫が宿るのを見た。
「ほら、それのことよ」
「……」
「──おぬし、知らんのかね。都内で真剣の立ち合いがあったことを」
「──!」
同じ師範代である新より、聞いたことがある。
──林原流一刀術の某が、斬られて死んだ。犯人は不明だが、傷跡から見るに相当の剣客であることは間違いない──。
「誰かは知らんが、今や実戦上等の派閥は縄を解かれた猟犬のように、目につく獲物へ飛びかかる始末よ。……斯く云うおれも、その猟犬の一匹だがね」
「……我々とあなた方とは、一切の遺恨無し。それで真剣勝負に応じろ、というのは──」
「遺恨なら、ホレ」
柳井をアゴで指す桑津流。柳井は痛みに顔を歪ませながら、首を振る。
吉永は背後に控える門下生の気を感じた。一部の剣気は張り詰め、一手誤れば、桑津流を膾にせんと飛びかかるだろうが──返り討ちが関の山だと判断した。
師範代として、無用の血を流すわけにはいかず、そして──。
「……桑津流、殿」
「……どうしたね、吉永殿」
「あなたとの立ち合い、謹んでお受け致します。何卒、他の門人には手出しなさらぬよう──」
「──畏まった。ありがとうよ、師範代」
我が身にも、僅か──真剣を用いた命の遣り取りに心動くものがあった。
***********************
場は再び、境内でのにらみ合いに移る。
桑津流が修めた日下派神道流組太刀術は、示現流を下地にした古流剣術。
蜻蛉構えから繰り出す、豪快にして俊敏な運剣は勿論、足運びにより変化するニの太刀、三の太刀も脅威であった。
加えて、剣客に伝わる不文律──。
"薩摩の初太刀は外せ"
幕末を震撼せしめた、薩摩兵児が好んで使う示現流系統の運剣は『二の太刀要らず』と唱われ、猿のごとき雄叫びと共に繰り出される壮絶な斬り下ろしは、下手に受けようものならば、自ら受けた刀ごと頭蓋にめり込んで死ぬ羽目になる。
桑津流が柳井相手に振るう剣も、まさしく往年の薩摩剣士を彷彿とさせる迫力と豪快さがあり、下手に間合いに踏み込むならば、なにも出来ず正中線から両断されるだろう。
桑津流の鞘より、白刃が解き放たれた。
蜻蛉に構える桑津流の体躯は、気迫によりもう一回り膨張したかのような錯覚を引き起こす。
対して、吉永の刀は未だ鞘内。しかし鯉口は静かに切られ、金打音とともに静かな殺気が、鏡面の水面を揺らす波紋のように、確実に場を満たしていった。
──抜付か。
仁王のごとき桑津流の厳めしい眼に喜悦が走る。
細身の吉永が普通に打ち合えば、力と体格に勝る自分に競り負けるは道理。ならば間合いを計らせぬよう、刀を鞘内に収めつつ、進発を以て打ち出す抜付が最適解。
であれば、距離を詰めて胴を抜くか──さもなくば、間合いを狂わせて後の先を誘って、斬り付けるか。
相対する吉永は──。
今、脳内で詰め将棋のごとく、攻め手を繰り返していた。
間合いを詰めた逆胴。
──頭蓋を唐竹に割られ、自分が死ぬ。
間合いを狂わせる為、緩急自在に踏み込んで、相手が振り抜いたあとでの、小手。
──振り抜いた刃を返されて、鎬で受けられたあと、逆胴を抜かれて自分が死ぬ。
振り抜かせて、太刀を踏んで顔を斬る。
──踏むより早く逆風に斬られて、自分が死ぬ。
──繰り返すこと、三十四手。
悉く吉永の返り討ちと相成った。
吉永と桑津流の顔面に汗が伝う。
互いに心で打ち合い、斬って斬られてを繰り返している。枯れ葉の波が風に吹かれ、お互いの足を浚う。
吉永が息を吸い、静かに──吐いた。
気の揺らぎが止まるのを見、桑津流は吉永が攻めてくるのを確信した。
吉永の姿勢は前傾、脚に起こり有り、懐に入っての抜付と桑津流は判断した──が。
吉永の前傾はまるで転ぶがごとく。一拍置いた足運び。後の先狙いか。しかし桑津流はさらに一歩踏み込み、霹靂のごとき斬り落としを放たんとする。
立ち木を削り枯らす打ち込みを、風雨雷雹降り注ごうと毎日毎夜欠かすことなく繰り返し、今や1日で樫を削り折るまでになった渾身の初太刀、幻惑の足運びに鈍ること無し。
吉永の初太刀が届くまで、三歩。
身体の進発に滞りなし。
一歩、吉永の手は柄を握る。
二歩、桑津流の刃が空を切り裂き吉永の頭蓋目掛け落ちてゆく。
三歩──。
桑津流の視界から、吉永が消える。
桑津流の運剣に生じる躊躇。
刹那にも満たぬ、那由多の空白──。
しかしそれこそ、致命を別つ分水嶺。
──下!!
地を這うがごとき吉永の姿勢、桑津流は刃を──。
吉永の放つ剣閃が、桑津流の臓器を切り裂いていた。
***********************
魔剣とは、理論的に構築され、論理的に行使されなければならない。
まず第一の理論として、肥後拵の打刀。
反りが浅く、やや短めの刀身は片手の抜刀を可能とする。
第二の理論は、走法。
まず前転するかのような身体の傾き。そして左足を前に出し、右足に遊びを持たせる。相手が間合いを誤るなら、抜付で葬る。
相手が間合いを誤らず、こちらの走法に対応するならば──。
第三の理論、姿勢。
薩摩剣客と同じく、幕末京都を震撼せしめた剣客、河上某──。
その悪名をとどろかせた我流抜刀術。
遊びを持たせた右足を前に、左足を進発とし、最終加速の勢いを以て運剣の要とする。
同時に鞘尻を下げ、抜付の余裕を作ると同時に、顔と胴を、地に這うほど下げて、相手の視界から自らを"消す"。
視界錯誤によって生じる、相手の遅延による相対的加速。
そして姿勢を低くすることで、相手の唐竹が脳天に届くのを僅かにでも送らせる工夫。
第一の工夫、第二の工夫、第三の工夫。
これらを合わせ、霹靂をも越える神速の抜刀と成す。
弥上兵法『雪割』が崩し。
我流魔剣『千鳥』
***********************
吉永の視界に映るのは、枯れ葉に包まれた石畳。破けた隙間を蟻が這う。
うなじと肩甲骨に、じわりと真剣の圧を感じる。距離は紙一重。己が手に肉を裂く手応え無くば──。
汗と血が顔を伝う。
僅かな臭気。
桑津流の腹から流れる血が、自らに降りかかる。
後頭部にのし掛かる、荒々しい呼吸。
未だ絶えぬ殺気、怒り。咳の声。
騙し討ちのような、錯誤を利用した術理に対する怨念。
ゴボッ、ゴボッ──と、血泡混じりの声。
「──卑劣、者………ッ……!」
吉永の背にかかる圧力は質量を伴う。
桑津流の死骸が、吉永にもたれ掛かる。
連盟員が死骸を退かす。
吉永は、残心を保ち納刀した。
日が落ちて、社は紅く染まる。
影は濃く、闇を心に落とす。
吉永の心に去来するのは、人を手にかけた感触。
僅かな、冥い愉悦。
研鑽による術理の成立。
強者を屠った時、確かに悦びに包まれた。
これが、古流武術の答えの一つなのか──と問いかけても、返ってくるのは木枯しの音。
目蓋の裏に映るのは、過日の道場。
不敵な桑津流の笑み。
あの時の一言が、残響していた。
≪了≫
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