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ユー・アー・マイ・クイーン

秋の風が冷たさを運ぶころ、イザベラ・サザーランドは綾杉模様のストールをたぐり寄せ、身を包んだ。

川辺の空気はつめたく、老体には堪える。それでも、散歩終わりにテムズ川そばのベンチに腰かけて、行き交う若い人々のはつらつとした顔を見るのが、老後の楽しみだった。

イザベラ・サザーランドは教師だった。子供たちの笑顔で一日が始まり、子供たちが別れを惜しむ泣き顔を季節の変わり目とともに見送ってきた。

しわくちゃの、ひび割れた左手に填まる指輪を見る。愛する夫との間についぞ子供は生まれなかった──が、学舎の子供たちに実子と変わらぬ愛情を注いできたつもりだ。人を愛すること、自分を愛してあげること。いろんな人々のいろんなこと、そしてひとつまみのユーモアを教えてきた。

自らの元を巣立ちして、家庭をもったりもたなかったり、職についたりつかなったり──いろいろなことをしたり、あるいは、しなかったり……そんなことを手紙やパソコンのメールで教えてくれるあの子達が、自分の教えたことを誰かに繋いでくれれば、幸いなことはない。

「イザベラ」

やさしく甘いテノールが後ろから響く。

ごま塩頭を七三に纏め、太い黒ふちのメガネをかけて、鈍い艶のツイードを着て、笑顔がくっきりうつるようなシワがはしった、愛しいひと。

「アレクサンダー」

イザベラは夫に笑いかける。太陽の光より輝くブロンドは、月の女神がまとうシルクのような白髪になり、顔のしわはまるで繊細な生地のようであり、エメラルドの瞳はかわらず輝いている。

「心配したよ、なかなか戻らないから」
「ごめんなさい。すこしゆっくりしすぎたのね」
「良いよ、お嬢さん」

アレクサンダーはイザベラのほほに口づけする。そして恭しくかがみ、手をとる。

「さあ、僕たちの家に帰ろう」
「ええ」

イザベラは微笑み、手をとる。

何年繰り返しても、色褪せないやり取り。

手を繋いで、石畳を歩んで行く。いつか天に召されるまで。

イザベラは神に感謝をつげた。
神様、私にこんな素敵なハンサムさんを使わしてくれたことを感謝します。
願わくは、明日もこの素敵な笑顔を見られますよう──。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

深夜。

イザベラは、深い眠りにつく。アレクサンダーはベッド脇のロッキングチェアでいとおしげに寝顔を見つめていた。

最近、彼女の食が細いのが気にかかる。大して量のないシチューをまた残していた。

わかっている。何時かは別れがくる。生きている限り、我々は死から逃れられないのだ──。

アレクサンダーは立ち上がり、戸棚を探り、隠し棚にしまった消音器付きの拳銃を手にした。

イザベラに近づき、額に口づける。規則正しく、消え入りそうな寝息が返ってくる。

そして───。

闇から忍び寄ってきた男を一瞥もせず、正確に内蔵を撃ち抜き、振り向き様に額へ弾丸を突き刺した。

イザベラを起こさぬよう、倒れこむ死体を抱き、床へ置く。バラクラバに軍用装備、黒塗りのナイフ。──気配はまだ一つあった。

靴を脱ぎ、靴下姿で、闇を滑るように歩く。

リビングから物音がした。自分とイザベラの家を荒らされるのは気分が悪い。

わざとらしく咳払いをする。漁る音が鳴りやむ。

気配の元へ近づくと、同じ顔を隠したものものしい装備の男が立っていた。

男の手には消音器付きの拳銃。両手をあげて降参の構えをみせる。バラクラバからわずかに見える目元が上なりに歪む。男の指が引鉄にかかる。

アレクサンダーは拳銃を男に向かって投げる。顔に当たり、拳銃が上に飛ぶ。うめく男にアレクサンダーは一瞬で接近し、左手で銃を払い、右足で男の足を払い、男をひざまつかせる。

男は拳銃を撃とうとするが、指に力を込めた瞬間、拳銃が手の内にないことに気づいた。男の拳銃はアレクサンダーがすでに奪っていた。

アレクサンダーが引鉄を弾く。男は死ぬ。空中に投げ出された自分の拳銃をアレクサンダーがキャッチする。

アレクサンダーは乱れた髪を直し、息を整える。
夜の闇が拡がる世界を、かつて、自分が跋扈していた世界を窓越しに見る。

──年老いた、元スパイがそこにいた。

【つづく】

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