2024年、なぜ若者バッシングは「新たな全盛期」を迎えてしまったのか(2025.01.03)

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はじめに

さて、改めて、2024年とはなんだったのかということを振り返っていきたいと思います。私にとっての2024年とは「ポスト劣化言説の時代」の実相が見えてきた年でした。そもそもこの言葉は、私が2017年に刊行した同人誌『間違いだらけの論客選び・改』で使って以来、いまはなんとなくそんな時代なんだろうと思って使ってきた言葉なのですが、そもそもその実相がつかめずにいた状態でした。しかし2024年という一年を完走して、その実態がはっきりと見えてきた気がします。

特に40代~50代の多くの人にとって、2024年は「若者」が自分たちにとっての脅威として認識された時代だったと思うかもしれません。高齢者排斥を求める政党の躍進など……。しかし、奇妙な話です。なぜなら私の記憶が正しければ、2000年代初頭には既に中高年正社員を既得権益層と捉え、彼らが自分たち若者――すなわち現在の40代後半~50代くらいの層です――を邪魔しているという言説がまことしやかに語られたからです。その証拠としていくつかの書籍を下記のnote記事で採り上げました。

若者論屋、言論屋として、これらの言説を忘れたとは言わせません。しかし、ロスジェネ論客、例えば雨宮処凜氏を中心に、あたかも自分たちロスジェネ、ないし就職氷河期世代が一方的な被害者であるかの如き歴史修正が、2023年から行われてきたと言わざるを得ません。

他方で2024年は、パレスチナ反戦運動、大学学費値上げ反対運動、そして東京都知事選における一人街宣など、若い世代による社会運動が前年にも増して多くのところで起きた時代でもありました。しかし多くの左派は、これらの運動について、短期的には採り上げつつも、結局は若い世代を叩く快楽に勝てずに若者バッシングに回帰していきました。2024年の都知事選なんて、多くの若い人が一人街宣に立ったにもかかわらず、結果が出たらそれらが全て忘れ去られたかのような雰囲気でした。

私が折に触れてその若い世代に対する差別意識を指摘してきた北守こと藤崎剛人も、2024年当初は「ネット言論が若い世代に与える影響を考えなければならない」と、それまでの藤崎であれば「若者に対知る人権侵害」などと言いそうなことを言ったり、あるいは学費値上げ反対運動に賛同していたりして、その差別的な姿勢を改めるかと思いましたが、衆院選(彼はどちらかと言えば立憲民主党の擁護(中には無理筋擁護を含む)に終始していた)における国民民主党の躍進をきっかけに若者バッシングの快楽に帰って行きました。

2024年の若者論は、1990年代~2000年代初頭のような若者バッシングが乱れ飛んでいた時期とはまた違った、「新たな全盛期」を迎えた用でした。このような若者論の動きはなぜ生じたのかについて考えていきたいと思います。

そもそも「劣化言説の時代」は「若者のせいにする時代」だ

2024年の東京都知事選挙(元広島県安芸高田市長の石丸伸二候補の躍進)について、多くのメディアが出口調査のデータを使って同候補が若い世代に絶大な支持を得たかのような書きぶりをして、朝日新聞や毎日新聞などのメディアが「石丸伸二現象」などという書き方で若い世代の「異常さ」を煽りました。

このような現象について、恐らく我が国の社会学者で唯一の「若者論の専門家」と言ってもいい富永京子氏がこのように書いていました。

これらの指摘はとても重要です。なぜなら実数では恐らく30代、40代も20代と同程度、もしくはそれ以上に石丸候補に投票していると思われるからです。さらに同じようなことは同年の衆院選における国民民主党や、2024年兵庫県知事選における斎藤元彦候補にも言えることができます。しかし、それこそ富永氏のいうような「Z世代」や「TikTok」みたいな安直な「物語」を作れるような若者論に終始してしまっていました。

そもそも「劣化言説の時代」とは、「若者」に対して自己や社会の好ましくない像を好きなように投影しようとする社会です。例えば少年による凶悪犯罪(暗数が少ない)の検挙件数が下がっているにもかかわらず、それを「郊外化」とか「自虐史観」みたいなワードで「説明」して見せたり、あるいは「日本語ブーム」みたいなものを採り上げて「若者の右傾化」として政治的な動きと短絡して見せたりなどするような言説に、多くの人が快哉を叫びました。

このような言説は、「売らんかな」で作られたものが多く、とりわけ2000年代に若者論で多くのベストセラーを出した三浦展はその典型です。実際、彼は複数のインタビューで次のように述べています。

〈「学問は予測してはいけない。でも、マーケティングは予測しなきゃいけない。社会が向かう方向を示すとき、学問は位置まで正確でないといけないが、マーケティングは、大体でいい。素早い意思決定のためにやっているんだから。
『下流』も、厳密な定義はなく、簡単に言えば『キーワード』。この言葉は、モヤモヤした世の中が、すっきり見える眼鏡であり、社会を考えるための武器」〉(2005年12月23日付東京新聞)
〈三浦氏本人は、調査分析の客観的な著述を書きたいがそれは売れない、ことに若者論に関してはバッシングのほうが絶対に売れるのだという。(略)マーケティング・アナリストと名乗っているからには、自分の本もこうすれば売れるよ、と見せておきたい、というのもある。そこで、「そんなゆるい生き方をしていると下流に落ちるぞ」という価値判断をすると、本は売れる。だから『下流社会』は意図的にバッシング気味に書いたという〉(是永論(代表研究者)『日本社会「劣化」の言説分析——言説の布置・展開およびその特徴と背景に関する研究(2008年度〜2010年度 科学研究費助成金 基盤研究(B) 研究成果報告書)』READ研究会、2011年3月)〉 

後藤和智「マーケティング化する「若者論」の罪」 https://gendai.media/articles/-/48919

1990年代~2000年代は、最初に政治右派が「ゆとり教育」や歴史教育、ジェンダーフリー教育をバッシングする目的で、次にサブカルチャー左派は「若者の右傾化」論として現代の文化を叩く目的で、そして最後にマーケッターがこのような商業的な動機で若い世代をバッシングしてきた時期でした。いわば社会問題を「若者」のせいにして、外部化することによって「安心」を得てきた時代であると言えます。

若い世代のコミュニケーションを批判しておきながら、その実は自分のコミュニケーション不安を若者論として投影しているだけだった、という指摘は他にもあります(例えば、北田暁大「若者論の理由」『若者の現在 文化』(日本図書センター、2012年)など)。「劣化言説の時代」とは、いわば「若者のせいにする時代」だったのです。

ポスト劣化言説の時代――若者が「邪神」化する時代

このような「若者のせいにする」態度が「当たり前」になった時代こそが、まさに「ポスト劣化言説の時代」といえます。ポスト劣化言説の時代とは、「若者」は自分たちとは異なった異質な存在であるということが最早「当たり前」のものとして捉えられ、「若者」を否定的に描くことにより自分たちの「正しさ」を認識する時代と言えます。

典型的なのは2020年代に猖獗を極めている「倍速視聴」バッシングでしょう。そもそも映画などを倍速で見る行為自体、VHSの時代から問題視されていたと聞きますが、かつてはそれが『こち亀』(秋本治『こちら葛飾区亀有公園前派出所』)のネタくらいで済んでいたのが、今や若い世代の政治や社会に対する態度と結びつけられて語られるようになっています。

例えばこちらも私がことあるごとに若い世代に対する差別的な態度を指摘してきた「猫(ロボ)のリュックくん」(以下「猫リュック」)は、今2024年2月に若い世代におけるLINEの文章、そして11月に倍速視聴叩きが盛り上がったときに、若い世代を問題視するツイートを嬉々として連発していました(引用はあくまでも一例)。

この手の若者論者にとって重要なのは、本当にそれが問題視するくらい広がっているのか、あるいは上の世代と比較してどうなのか、ということではありません(実際、後者の日経が採り上げているデータは上の世代との比較がありません)。自分たちの消費が「正しい」ものと思い込んだ上で、それとは「違う」若年層によって社会問題がもたらされる、という考え方なのです。

2024年は、このようなジェネレーションギャップ扇動がいつにも増して多かった時期だと思っています。

こういったカジュアルな若年層否定が目につくのは、「非・若者」という立場でしか自己を認識できない層が多いこと、そしてそういう言論環境の中で若い世代が「腫れ物に触れるような」扱いをされていることの証左です。つまり、「人間」としての若年層が彼らにとっては認識されないわけです。いわば、劣化言説の時代を経て、若い世代は「邪神」にさせられてしまっているのです

若い世代の社会運動が、なぜかイデオロギー的に近い人たちから一瞬で忘れ去られてしまうのも、彼らにとって「非・人間」として扱っている若年層が「人間」として現れることの恐れから来ているのだと思います。例えばこのようなツイートも典型です。

高岡洋詞氏や和田靜香氏が、都知事選における一人街宣や、それ以外の若い世代による種々の社会運動を無視してこのように出口調査の結果だけで若い世代を叩いてしまえるのも、否定することによって自分の正しさを証明するための存在こそ「若者」であるという態度が現れています。

最早我が国において「若者」は「若い者」ではありません。「若者」は「自らに仇なす者」なのです。

邪神信仰としての若者論

最早「人間」として見られなくなった我が国の「若者」ですが、それを「現役世代」として祭り上げていたのが国民民主党やれいわ新選組といった、ロスジェネ論客の流れを汲む政治勢力です(特に前者)。左派にとって「若者」が「腫れ物に触れるような」存在になっていることから、それを祭り上げることによって勢いをつけてきたと言えます。

我が国の若者バッシングとこういった政治勢力に共通している認識こそ、まさに「若者」を「邪神」扱いする態度であり、その「若者」に対する距離感こそが政治的なスタンスになってしまっているという状況にあると言えます。

このような時代に合っては、若者論の否定は彼らのアイデンティティの否定であり、また(非人間としての)「若者」の肯定/否定を当たり前としてきた人間としては受け入れがたいものになっています。私の若者論批判に対してなぜか「若者論を批判するなら立場を示せ」みたいな反応が主としてサブカルチャー左派から出てくるのも、こういった歴史の影響なのです。

「脅威」ではなく「人間」として若年層を捉えるべきだ

2024年は、「若者」でないという自覚を持ったロスジェネ論客の消費者が若者バッシングになだれ込んできた年でした。彼らは自分たちが過去に行ってきたことや快哉を叫んできた言論をあっさりと忘却して若い世代を「脅威」とする勢力に加わったのです。

本稿では、「若者でない」ことに安心する心性がいかに形成され、それが言論をいかに歪めているかということを述べてきました。ここからの脱却に必要なのは、若年層を「人間」と認めることです。

2024年は「俺は若者じゃなくなった、だから若者叩き放題だ!」みたいな態度の人間が多く現れた時期でしたが、加齢は若い世代を叩く権利では決してありません。むしろ「若者」を否定することで安心するその心性を問題視する必要があるのです。

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