謎の権力者・嫪毐
嫪毐(ろうあい)
嫪毐と趙姫は、どんな人物だったのか。前回は趙姫にスポットを当ててみました。今回は嫪毐を見ていきます。どんな人物だったのでしょうか。
嫪毐の乱が起きた年
嫪毐に関する資料が乏しいので、おさらい的に趙姫の年表に嫪毐の乱を加筆してみました。
<趙姫・年表>
紀元前280年 誕生
紀元前259年 21歳:子楚(荘襄王)と結婚
2月、嬴政(始皇帝)が生まれる
紀元前250年 30歳:秦に入国
紀元前249年 31歳:荘襄王、即位
紀元前247年 33歳:荘襄王、死去
紀元前238年 42歳:嫪毐の乱
紀元前238年、趙姫が42歳の時、嫪毐の乱が起きました。これを、父親・呂不韋、母親・趙姫、子の嬴政の3人の年表で見てみます。
嫪毐の乱の時、嬴政は21歳、呂不韋は52歳です。残念ながら嫪毐の年齢は分かりません。ただ、恐らく呂不韋と同じくらいか、少し若いくらいだったのではないでしょうか。
秦における2大権力者、呂不韋と嫪毐
実は史記を良く読むと、呂不韋と嫪毐が2大権力者であったことが書かれています。嫪毐は魏の山陽、趙の太原を領地として持っていました。呂不韋は韓の洛陽を領地として持っていました。嬴政の家臣で、領地を持つことを許されていたのがこの2人なのです。
マップで見てみましょう。
他国のど真ん中に領地を持つということが、今の感覚だと良く理解出来ません。但し、相当の権力がないと、許されないことだと思います。これは私も勉強不足なので、なぜこのような状況が許されたのかは宿題とさせてください。
※追記※
上記の記事に記載の通り、呂不韋に関しては、昭文君を殺して東周を滅亡させた時に、褒美として東周の首都・洛陽を封地として獲得したようです。
本当に嫪毐は、さらなる権力を求め、反乱を起こしたのでしょうか。
嫪毐の乱は現実的か
実は嫪毐の乱については、異なる2つの説があり、どちらが事実なのか分かっていません。
1.呂不韋列伝 第25
嫪毐が蘄年宮で反乱を起こした
2.秦始皇本紀 第6
始皇帝が嫪毐に謀反の疑いを持ち、咸陽で兵を起こした
まず大きく異なるのが、1.では嫪毐が挙兵していて、2.では始皇帝が挙兵していることと、乱が起きたとされている場所の違いです。大きく異なるというか、全然違うのです。矛盾しています。
嫪毐が蘄年宮で反乱を起こしたとすると、どこで挙兵したのでしょうか。下図の、ハートのチェックインマークがある場所が太原市で(一度訪れたことがあります)、東にある○が山陽(今の山東省菏沢市)です。西の○が蘄年宮(陜西省鳳翔南部)で、その少し東に咸陽市が見えます。
<蘄年宮(陜西省鳳翔南部)までの直線距離>
➔咸陽から…約130km
➔太原から…約600km
➔山陽(山東省菏沢市)から…約750km
嫪毐は王の御璽と太后の印璽を盗み出して、咸陽で挙兵したとされています。距離的に彼の領地(太原・山陽)から蘄年宮に向かうのはあり得ません。遠すぎて途中でバレますね。ただ、咸陽から蘄年宮までたどり着くためにも、130kmを行軍する必要があります。
中国の地図だと近いようみ見えますが、東京駅から130kmだと、富士山を通り越します。これだけの距離を始皇帝にまったく気づかれず行軍し、蘄年宮で反乱を起こすというのは少し現実的ではない気がします。休み無しで歩き続けても、1日かかる距離です。大軍であれば1日半はかかったでしょう。
仮に本気で嬴政を殺し、自らが王になろうとするのであれば、そのまま咸陽を乗っ取って嬴政が帰ってきた時に芝居を打てば良いのです。権力者であった嫪毐は、そこまでバカだったのでしょうか。
つまり、呂不韋列伝の記載を信じようとすると、疑問が噴出してしまいます。ということで、秦始皇本紀のほうが信憑性が高そうです。
嫪毐の乱は本当にあったのか
現時点では、「無かった」と断言することは出来ません。秦始皇本紀に記載されている内容が合っているのだと思います。
少し引っかかるのは、秦が統一に向けて強烈なまでの軍事力を展開する中で、秦の2大権力者2人が同じ時期に「消された」ことです。戦国春秋時代に、国家運営が上手く行かずに世が乱れ、王を殺して新王になった例は数多あります。ただ、この時期の秦のように、中華統一に向けて一丸となっていく最中に、権力者の挿げ替えを狙うというのはレアです。
そしてこの2人の失脚後から、秦は大侵攻を開始するのです。キングダムでは、「国内の体制を整えて、いよいよ他国への侵攻」という流れで、本当に上手くストーリー化されています。
では嫪毐と呂不韋は、そこまで愚かだったのでしょうか。呂不韋については、呂氏の系譜から隠された真実を妄想してきました。商人でもあり、傑物でもあり、上手く世の中を渡り歩ける人物です。嫪毐については深堀りできるほどの情報がないため、「神話的」過ぎるエピソードがある場合、「創作」の可能性があるということだけ書いておきたいと思います。
嫪毐は桐の輪を巨根で貫いた
嫪毐はその巨根で車輪を持ち上げることが出来た
とても人間とは思えないエピソードで、日本の神話に通じるところがあると思ったのは私だけではないと思います。
そして中国のBaidu百科には、嫪毐の乱はなんとあの呂不韋を誅殺するために起こしたクーデター、ということが記載されています。
呂不韋を誅殺するためのクーデーター(中段・主要事件参照)
https://baike.baidu.com/item/%E5%AB%AA%E6%AF%90/533294
ということは、秦としては呂不韋を助けるために、嫪毐の反乱を抑えたということになりますね。
実はここから、呂不韋や嬴政、趙姫に関する新たな解釈が見つかるかも…と期待していたのですが、現時点では面白い妄想が思い浮かびませんでした。情報が少なすぎました。また面白い発見があれば、改めて書きたいと思います。
その他の記事は、下記からお読み頂けます。
マガジン「キングダム考察と呂氏」