
私達は見ていた。(1)
ブルブルブル…….
…なのかな
もし聞こえていたらきっとこんな音だろうか、と今朝も枕の下で勢いよく響いた目覚ましバイブのスイッチをようやくオフにし、のろのろと起き上がった。今日は日差しがきつそうね、と窓から降り注ぐ真っ黄色な光を見て、今日の服は何しようか、などとぼんやり考えた。
……補聴器、どこに置いたんだっけ
毎朝、必ず探し出すものが補聴器だ。寝る前にどこかに置いたはずなのに思い出せない。あちこち探し回って、あっそうだった、寝る前テレビ台の上に置いたんだった、と歩きながら思い出した。
それから前方にある壁掛け時計を見上げ、時間を確認する。出勤前のいつものローテーションだ。
階段を下り、ダイニングキッチンへ向かう。
そして冷蔵庫を開け、中にあるいくつかの食品を取り出す。勢いよく閉めようとして、そうだった静かに閉めなさい、と注意されたっけ、あれは誰だったかなあ、などとぼんやり考える。
そう、彼女は聞こえないのだ。世間では彼女のことを「聴覚障害者」と、そう呼ぶ。
尤も彼女は、聞こえないのが当たり前なのでピンとこないらしいのだが。あえて呼ぶならば「情報保障困難者」であろう。彼女には目に入るものが全てであり、ざわめく音の世界を知らない。
テレビをつければアナウンサーやMCが喋り、
洗濯機からはアラームが鳴り、
窓を開ければ蝉がやかましく鳴いている。
そんな音の世界を彼女は知らない。
何を言ってるのかわからないアナウンサーやMCを眺め、
洗濯機のランプを時々見て、
窓を開けて外の景色をぐるっと見回す。
彼女はそうやって目で判断する。
やれやれ、今日は一日暑そうだな、と捲った腕に降り注ぐ光を感じながら彼女は思った。
彼女が聞こえなくなったのはいつなのか、それは誰にもわからない。気がついたらいつのまにか聞こえなくなっていた。医師達は原因不明のろう、と診断された時、彼女はすでに6歳になっていた。
誰かが階段を降りてきた。背を向けて料理をする彼女が振り向くのをおとなしく待つ。料理時に肩を叩くと彼女が驚き怪我をする恐れがあるからだ。
しばらくして気配を感じたのか、彼女は振り向いた。彼がにこやかに手を挙げて挨拶をする。
このおうちは、手を挙げて挨拶をするのだ。いわば目に見える挨拶。彼女が生まれてからずっと受け継がれてきた聞こえない人の挨拶だ。彼女も、同じく手を挙げて挨拶をかわしながら『早いね』と、手話で話しかけた。
『日差しがまぶしくて目が覚めた』彼も手話でこたえる。
『そう』
『今日も暑そうだな』
『きっと暑いよ、降り注ぐ日差しが痛いもん』
『だろうな』
そんなふうに手話でおしゃべりを交わす。
それがこのおうちの日常だ。
*****
「あ、青木さん、こちらです。」
青木と呼ばれた男性が、手袋と足袋をはめながら歩いてくる。
「ええ、被害者はこの家の妻です。」
採用されたばかりなのだろう、制服が真新しい。
「家族から通報がありました。あ、自分、森本と言います。」
青木は、説明を聞きながら家の中へ入った。
「これは…」
「ええ、心臓のあたりに包丁のようなもので刺されています。即死だそうです。」
森本は手帳をめくりながら、概要を説明した。
被害者は、仰向けになって倒れたまま動かない。被害者の背中には大量の鮮やかな血液が溜まりのように広がったままだ。
青木は、静かに合掌した。
鑑識が指紋や足跡採取をしている。
「聞き込みに行くか」
青木は森本を誘った。
周辺にはパトカーや救急車のサイレンを聞きつけて集まった近所の人らで騒然としていた。
「このおうちの隣人はいませんか?」
誰も手をあげなかった。
青木は隣の家に目を向けた。
「おい、見ろ。電気がついている。誰か人がいるのか?」
「こんな騒ぎの中、外に出ないなんておかしいですね。」
森本が青木の方へ向かって話した。
「よし、聞いてみるか。」
青木はチャイムを鳴らした。
「ん?」
チャイムの音が聞こえないのだ。代わりに回転ランプが回っているのがチラっと見えるだけだ。
「なんだ?このおうちは….」
やがてドタドタと階段を降りる音が聞こえた。
ガチャっ
鍵を回したのだろう、勢いよくドアが開いた。女性だった。40代なのだろう、髪の毛を括っていた。
「あのー警察です。」
青木は身分証明書を提示した。つられて森本も慌てて身分証明書を提示した。
「隣で奥さんが亡くなられたんですが、ちょっとお尋ねしたく…」
青木の言葉を遮るように、彼女の背後からドンドンと大きな足音が近づいてきた。今度は大柄な男性だった。男性は何やら手を動かしている。それに応えるかのように彼女も手を動かしていた。2人とも不安そうな顔をしていた。
「もしかして、耳が?」
森本は青木にこっそり耳打ちした。
「チッ、ろうあ者か」
青木は舌打ちした。ろうあ者か。道理でサイレンも聞こえないわけだ。この調子では外で何かあったのか、知る由もないだろう。いずれにせよこの夫婦からの聴取は無理そうだな。
青木が、顎に手を当てて黙り込んでいると、彼女は玄関の上に置いてあったメモとペンを取り出し
【何かあったのですか?】
とスラスラと書いてよこした。
チッ筆談かよ、厄介だな。
青木はニ回目の舌打ちをした。
【警察です】
と書き始めた途端、彼女は顔をしかめた。
チッ悪筆で悪かったな、青木は三度目の舌打ちをした。
悪筆は自分でもわかっている。仕方がない。割り切ってそのまま書き進んだ。
【隣の家で、奥さんが刺されました】
彼女と覗き込んだ男性は彼女の夫なのだろう、2人ともメモをじっと覗き込むと、たちまち目が見開いた。【隣について何か知ってることは?】
彼女とその夫は顔を見合わせ、首を傾げた。
【物音とか、
続きを書こうとしてペンを止めた。そうだ、彼らは聞こえないのだ。
【物音とか、】の文に二重で線を引き、【何か変わったことは?】
筆談だとどうしてこんなに時間がかかるのだろう。青木はイライラした。
メモを奪い返した彼女は【私達は耳が聞こえないので、物音とかわかりません。昨夜は何もなかったんです。いつものように朝を迎えた、それだけです。】
筆談に慣れているのか、スラスラと彼女はペンを走らせた。
きれいな字だな、青木はふと彼女の字を見てそう思った。おそらく相手が読みやすいように、気を遣ってきたに違いない。彼女の字は大変読みやすく、なおかつ相手に伝わるよう要点が絞られていた。
彼女はメモをめくり、こう書いた。
【筆談だと時間がかかるので、手話通訳者を呼んでほしいのですが】
青木は、そばにいた森本に「おい、手話通訳者?そんなもんおるのか」とこっそり話しかけた。
「聴覚障害者のために手話通訳を派遣するという行政サービスがあるというのは聞いています」
さすが平成生まれの若者だ。俺よりよく知ってるじゃないか。青木は感心した。
「で、その手話通訳とやらはどこにいるんだね?」
青木が尋ねると、彼女はさっとメモとペンを差し出した。
書けってか….ったく。
横から森本が「僕が書きましょう」と助け舟を出した。
【手話通訳者はどうやって手配しますか?】
もたつきながら書く森本の字を見て、見かけに寄らず小さくて丸い字を書くんだな、とふと青木は思った。
彼女は森本からメモとペンを奪い返すと、これまた整った字で
【手話通訳派遣制度を利用します。本来なら市役所へFAXで依頼しなければなりません。でもFAXで送る余裕がないので、すみませんが市役所の福祉課へ電話してもらえますか】
ったく、なんでこういう時にごちゃごちゃとなるんだ。
青木は忌々しそうにスーツの胸ポケットからスマートフォンを取り出した。
彼女の夫が玄関先に貼ってあったメモを剥がし青木に押し付けた。そのメモは行政機関の電話番号の一覧表だった。
…用意がいいな。
市役所福祉課の電話番号を確認して、青木は電話をかけた。
朝早いせいだろう、なかなか出ない。公務員は確か8時半からだったな…
青木は腕時計をチラと見た。8時25分。
よし、もう少し待ってみよう。
しばらくして「はい、こちら立山市役所福祉課です」女性の声がした。
青木は「警察のものです。事件が起きましてちょっと聞きたいことがあるのですが、こちらのご夫婦がろうあ者といいますか、なんか耳が聞こえないようなんでして。込み入った話になるので手話通訳者を呼んでほしいと。ええ、そうです、奥さんがねそのように話していまして。ええ、ええ、はい、そうです。」
さすがは福祉課だ、すぐに状況を察してくれそうだ。
いくつかやりとりを終えた後、青木はスマートフォンを再び胸のポケットにしまいこんだ。
【あと10分で手話通訳者が来るそうだ。おたくの名前は柏本、で間違いない?】
我ながら相変わらず汚い字だな。青木は思った。
彼女らはそのメモを見て、首を上下に振った。どうやら、わかりました。の合図らしい。
森本がキョロキョロ見渡している。
チャイムの代わりだろうか、ピカピカ光るパトランプが玄関先と、奥の廊下の壁に2つ設置してあるのが見えた。靴箱の上には分厚い小さなメモとペンが置かれ、その上には「電話番号一覧」が貼り付けられてあった。
なるほど、電話ができないから誰かに頼むのか。
青木や森本の家にはない、聞こえないなりに工夫された家のつくりがこの家にはあった。
ふうん、なかなかよく考えられてるなあ。
青木は感心した。
やがて言われた通り10分たって手話通訳者が到着した。細身の男性だったのには青木達も驚いた。手話通訳者はなんとなく女性のイメージだったからだ。
首からかけている「手話通訳者」であることを証明するIDカードを見せ、
「並木と申します。」
と涼やかな声で話した。
その後、並木は彼らにも手話で挨拶をした。並木とは知り合いなのだろう、こわばった彼らの顔が少しゆるんできたのが見えた。並木は腕をまくり、まず彼らに手話で何やら伝えた。
何を話してる?
青木は訝った。
それを察したかのように並木は、
「今からね、あなた方警察官と柏本さん達の話をね、通訳しますと手話でお伝えしたんです。あ、僕は日本語と手話を同時にすることは難しいので、そのあたりはご了承いただけたらと思います。」
慣れているのだろう、澱みなくスラスラと説明してくれた。並木によれば、手話をしながら日本語つまり音声を使うことは出来ない。また、音声を使いながら手話することもできない、ということだった。
…いずれにせよ、筆談でやりとりするよりはマシか。
玄関先に広げられたままの自筆のメモをチラと見ながら、青木は了承した。
「では」「並木さん」「えー」「通訳をー」「お願いします」「えっとー」
青木が話し出すと、並木が遠慮がちに遮った。
「僕に構うことなく普通にお話し下さって結構ですので。」
そういうものなのか。青木はゴホンと咳払いをしていつも通りのテンポで話し始めた。
並木は聞きながら彼らへ手話通訳をしている。彼らの目が途端に光を帯びた。
…俺の話についていけている。並木とか言う奴、たいしたもんだな。
青木は横目で感心しながらなおも話し続けた。彼らは途中、途中、頷きながら並木の手話を見続けている。
「…そんなわけで、何か気づいたことがあれば教えてほしいのですが」
ここで並木は手を下ろした。手話通訳は終わり、という合図なのだろう。
彼女は、すーぅと息を吸い込んだ。動揺してるのだろうか。無理もない。朝っぱらから突然警察がきて、隣には奥さんが刺されたのだ、何か知ってるのか、と言われてるのだから。動揺しない方が無理だろう。
しばらくして組んでいた腕をほどき、彼女は手話で滑らかに語り始めた。
並木はそれを見ながら
「昨日の夕方奥さんが大きな荷物を抱えて帰ってくるのが見えました。重そうな荷物でした。お米でも買ったのかな?と思うほど重そうでした。あのおうちは確か二人暮らしで、その割には大きな荷物だな、と思いました。それからはわかりません。私達は聞こえないので、物音がしたとしても聞こえないのです。」
彼女の手話を追いながら、青木達へ日本語で音声通訳をしている。
…聞きやすい声だ。すんなり入ってくる。相当通訳に慣れてるのだろう。
森本が言った。
「大きい荷物?どれくらいですか?」
並木は手話通訳で彼女に伝える。
「….両手に抱えきれないほどの大きさだったようですよ。」
彼女の手話を並木が音声通訳した。
森本はさらに
「どんな荷物でしたか?」
と聞き返した。
「…茶色の紙袋だったのでわからないそうです。」
青木は、ふうむと黙り込んだ。
柏本の夫が、遠慮がちに手を振った。
割り込むタイミングを待っていたのだろう。
並木が彼に、どうぞと促した。
「…そういえば三日前の夜に見慣れない男性が玄関先で奥さんと何やら話してるのは見ました。」
青木はすぐさま身を乗り出し、
「どんな男性だったか?」
と尋ねた。
「…僕と同じ180センチはある男性でした。ちょうど僕も仕事の帰りで同じタイミングでした。体格のよい体をしていました。薄暗かったのでわかりませんが、黒のジャージ上下だったような気がします。黒のニット帽子を深くかぶっていたので、顔はあまり見えなかったです。あ、メガネ掛けていました。縁のない透明なメガネだったかな。」
青木は夫の観察力に驚いた。並木はそれに気づいたのか、
「聞こえない方は観察力が鋭いのですよ。」
と言った。
森本は手帳に今までの話を記入している。
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2022年にTwitterで投稿していたものを修正しました。Twitterもここまでで終わっています。続きは気が向いたらまた更新します。よろしくお願いします