私の特殊な生い立ちの話でも聞く?
私の生い立ちの話をしよう
なんというか多分特殊なんだろうと思う
私は聾親から生まれた
聞こえる赤ちゃんだったそうだ
というのは1歳の頃はすでに聴祖母宅に鳴り響く電話の音や周辺の音にいちいち反応していたらしい
周囲も「この子は聞こえる子やね」と思っていたそうで、特に遺伝の可能性があるかも知れないと危惧した母は安心したのだろう(詳しくは私のnote 難聴遺伝子検査〜をご参照ください)
聴赤ちゃんであっても日常会話は主に手話で親とも意思疎通もできていたのだから、親にとって違和感なかったのだろうと思う
我が子が聞こえないのでは?と気づくには、たいていは聴親が声掛けをする時もしくは何らかの音を立てたりしても、我が子が「振り向かない/反応がない」時に違和感を感じ、耳鼻科などへ受診して初めて発覚するものらしい
尤も、今は新生児聴覚スクリーニング検査で産まれてすぐにわかるものらしいのだが
https://www.jpa-web.org/dcms_media/other/shinseiji-chokaku-hearing_screening.pdf
さておき、テレビさえ音量0という家庭の中、音も声もなく手話で話す家庭に生まれた私は、音や声に対して「振り向かない/反応がない」といった聴親なら気づくであろう違和感に気づく環境でなかったこともあり、そのまますくすく育った
聴児と交流をさせるために入所した地域保育園では、同期の子どもの真似をして遊んでいれば疑われなかった
声があまり出せなかったのも当時はよく風邪を引き熱を出したこともあって「私ちゃんは風邪のせいかうまく話せないようです」「鼻声がひどいので話すのもしんどそうです」と度々綴られた当時の保育園連絡ノートに記載してあった通り、あまり発音しない私について親を始め周囲も不思議に思わなかった
また「親が聞こえないのだから、子どもも自然と声を出さない手話での会話をしているのだろう」と思われたようだった
実際聾親に生まれた聴子は、親と声を出さずに手話で話すケースが見られたからだ
そんな環境の中、地域幼稚園に通うことになり担任が初めて違和感に気づく
「この子はもしかして聞こえないのでは?」と
幼稚園になると担任の指示に従う場面が増える
工作など行動の指示に従わない
そして何より先生の全員集合の掛け声に私はいつもいなかった
担任はいつも園内を走り回って私を探したそうだ
年長の夏休みに入る前に、担任は聴祖母を呼び出した
「お子さん、おそらく聞こえないのだと思います。大きな病院で聴力検査を受けることをお勧めします」と告げられた
そしてそれはたちまち祖母から親へ伝えられた
周りは大変な衝撃だったそうだ
ちゃんと反応もあり、「見た目普通」の我が子が聾なんてあるはずがない、と祖母も親もパニックになったらしい
祖母は聾である父を育てていたから、意思疎通が出来ない聾児の行動や性格はわかっているつもりだった
それでも私が聾だとは見抜けなかった
担任から告げられた後、慌てて大きな総合病院の耳鼻科に連れて行き聴力検査をさせてみると、改めて重度の原因不明の突発性難聴であり、いつ聴力を失調したのかは定かではないがおそらく2歳の頃には失われていたのではないか、というのが当時の医師の見解だった
そして、改めて私のことを聴者目線で見てみると
確かに手話で会話は出来、意思疎通には問題なかったが、発音が全く出来ずかつ日本語もわからない、という私の姿がようやく浮き彫りになった
聞こえてると思った我が子は、発音も出来ず日本語すらもわからないなんて、そんな馬鹿な…
皆、そう思ったそうだ
そうして年長の夏に、私は聾幼稚園へ転入した
そこは残存聴覚を生かしつつ口話訓練を行う幼稚園だった
6歳で転入して初めて私は、日本語を学ぶのと同時に口話訓練が始まるのである
手話なら難なく「机」の手話ができても、それが日本語の「つくえ」であり、発音は tsu-ku-e になるいうことを認識させることからのスタートであった
まず口話訓練でaiueo基礎の音声を出すことから始まる
全く声も出ず話せない私が、イチから声を出すのは容易ではなく実際に先生の喉を触り、先生の口の中の動きを見て、真似するのだ
先生の声を聞いてその通りに発音する、ということが出来ないので、触って実感して「そう!この声だよ!」と先生から言われた「声」を一つずつ習覚えていくやり方だった
aやkaなどひとつずつ繰り出される、先生の喉の震えや口や舌の動きなどをしっかりインプットしていく
自分の声は聞こえないので、例えば so に近い声が出たら、先生から「これがso の声だよ!」と言われる
これがsoの声の出し方か、と繰り返し何度も出し方をインプットしていく、という風な感じだったと思う
そもそも相手の声はもちろん自分の声すら聞こえないのだから、「声を出す」行為自体がわからず、aの声を出すことすら最初は難しかった
a---i---u---e----o---、と母音から始まり、
ka行はうがいをさせてカラカラから
sa行は口の前に吊るされた短冊を上下の歯の隙間から息を吐くように
ta行は前歯の裏にタコセンをくっつけてそれを舌でつつく、
という風に先生方が色々と工夫を凝らした訓練だった(注意:当時の訓練方法です)
こうしてンまでの口話訓練をするのだけれど、za行やda行は省かれた
おそらく指導も習得も厳しいとと判断されたのだろう
sa行とna行は今だに苦手な発音のひとつだ
口話訓練は難儀したが、日本語の単語を覚えるのは容易かった
なぜならすでに手話を習得していた身にとって第二外国語の感覚であり、この手話の単語はこの日本語の単語になるのか、みたいな感じで吸収が早かったのだと思う
日本語の習得にはそれほど苦労しなかったと後に先生や祖母が話してたのでそうなんだろう
転入した年長の夏から翌年卒園する春までの半年の間には、実に千以上の日本語の単語を覚えたそうだ
卒園式の前の発表会では、主役桃太郎に続く2番目にセリフの多い、おばあさん役に指名された
卒園の頃には、日本語での意思疎通もある程度は可能になった
さて、小学校をどこに通わせるか
親は自分の経験から当然のように聾学校(現在は聴覚特別支援学校)、と考えていた
しかし聾学校は遠い場所にあるため、寮暮らしになると知った祖母の「同じ聞こえない親がいるのに家族が一緒に暮らせないのは可哀想だ」と、聾幼稚園担任の「私ちゃんはスポンジのように吸収力していくので、ひとまずは地域の難聴学級のある(聴)小学校へ通い、様子を見てから聾学校に転入するか決めてもいいのでは」により、親はいったん地域の難聴学級のある小学校へ私を入れることにした
親も手話を使わない学校で私がちゃんと勉強についていけるか不安だったそうだ
低学年まではほとんど難聴学級に在籍しており、ほぼ難聴学級担任とマンツーマンに近い授業のおかげか問題なく過ごせたらしい
さらに難聴学級には難聴児用の宿題(短文レッスンや日記)も上乗せしていたので、毎日こなすにつれ日本語力も徐々に向上したのか間違いが減りつつあった
3年生になると難聴学級で勉強する教科が国語だけになり、大半を聴クラスで授業を受けることになった
一日の大半を担任や聴同級生達の口元をじっと見続ける読話生活が始まったが、家に帰ると手話で会話する生活があったので息抜きにはなれたと思う
そんな時、たまたま雑誌で目にした漫画形式で学ぶ進研ゼミという通信教育が面白そうで、母にせがんで通信教育を始めた
漫画形式だったのでスラスラ入ったのもあるし、勉強すること次第楽しかったから苦でもなかった
中学3年までは進研ゼミで予習をし、学校の授業では復習、という感じで受けていたので、先生達の読話がわからなくても、勉強はついていけた
家で予習をしてきてるのだから、学校での授業を受けなくても、先生方の読話があんまりわからなくてもなんとかなった
家は家で、聾活動真っ只中の親から手話通訳や手話翻訳を頼まれる日々が小学高学年から毎日続くようになった
とはいえ、子どもの日本語文である
「大人な」日本語文にするために手話サークルの聴者や聴身内から日本語文を教わりながら書き上げた
そんなふうに家は家で親のために手話から日本語文を書き起こし、もしくは通訳/翻訳するという毎日であった
その時、自分の持つ知識を増やさないと対応できないと子ども心に思ったのかもしれない
とにかくなんでも調べた
調べて、理解して、吸収して知識を増やした
知識を増やすこと自体は楽しかった
わからないことを知る、ということが楽しかったのもあった
当時はテレビに字幕もなくネットもなく、調べるには図書館へ行ったり辞典で調べたり、周囲の大人に教わったり、出来る範囲で調べまくった
そんな小中学校時代、偏差値はゆうに70はあった
その中でも特に好きな英語は73はあった
翳りが見えてきたのは、高校時代で進研ゼミでの予習がまず進まない
授業は早く先生方は背中を向き黒板を描きながら授業するパターンが多く、読話は全く不可能だった
となると、家での予習・学校で復習、という難なくできてた勉強方法が崩れた
成績は一気に下降した
当時の私は、それが「情報保障のなさ」とは夢にも思わず、ただ「自分が怠けているせい」「勉強不足、努力不足」と思っていた
偏差値も45に下がり四年制大学は難しいと言われた
別に大学は行くつもりでもなかった
こんなに勉強が面白くない、と思ったのが初めてだったのもあったと思う
父が「せめて短大だけは行ってくれ」と聾者が就業することのハードルの高さ、日本語力のない聾者を取り巻く辛い環境が待っていることを何回も説明してきた
父がこんなに何度も話してくるのだから短大ぐらいは出ておこうか、と軽い気持ちで受けようとしたが、当時の偏差値でなんとか行ける短大かつ面接がない短大といえば京都のある短大しかなかった
そこに賭けた
一般試験は国語だけ、面接なしで挑んだ
父が京都まで付き添ってくれたので心強かった
試験場に向かう時、保護者待合室から手話で頑張れ、と私が見えなくなるまでずっと手話してくれた父がありがたかった
結果は合格だった
合格の知らせに担任が「えっ?」と驚いたほどだったのだから国語の点数が思いのほかよかったのだろう
短大に合格はしたが、しかし厳しかったのはそこからだった
まずマイクが邪魔で読話ができない
学生は何百人もいる中、講師はマイクでペラペラ話す
しかも時間は90分、長く口元を見続けるのは限界だった
この頃になると、近コンという近畿ろう学生懇談会という団体に入るようになり、そこで色々情報を得られた
ノートテイクという、講師の話をそばで聴学生が要約筆記していくものである
有名な大学かつ聞こえない学生が多い大学の一部はノートテイクを実施されていた
私の場合、短大にノートテイク制度がなかったのもあったが、ノートテイクより手話通訳が欲しかったので短大に手話通訳派遣の可否を問い合わせてみた
短大からの回答は「学外の人を来させるわけには…」であった
そんな情報保障が全くない2年間、ひたすらあちこちの学友にノートを借りまくった
そうしてギリギリでなんとか卒業できた
とまあ、こんな感じです
日本語力はどうやって?とかよく問われるのですが、こういう特殊な環境にいたから日本語力が伸びたのかなと思います
とはいえ、「大人な」日本語文を書くのはさすがに子ども心にもしんどかったです
普通のただ遊んで勉強してテレビ見て寝る、という子ども時代を送りたかったなあ、とたまに思う時があります
余談ですが、口話訓練は小学6年になるまで祖母の元続けられました
なぜかというと、当時は聾者に対する偏見がひどく手話で話す私達家族を見てわざと石を投げる人もいたり、「猿真似!」と猿のジェスチャーを目の前でやられたりしました
彼らは私達が話せないことを知っていてわざと煽ってくるのです
そんな彼らに私が勢いよく話すことで対抗できるようにしようと子ども心に思ったのでしょう
それと当時はまだ手話通訳派遣制度がなかったので、親の通訳もこなす必要がありました
必要に迫られての口話訓練であったということも申し添えておきます