福島の原発周辺地域を訪ねて
今年1月、東日本大震災で津波と福島第一原子力発電所事故の被害を受けた福島県の浜通りに足を運んだ。震災後は相馬市や南相馬市に繰り返しボランティアに訪ねていたが、津浪の被害の後が片づけられ、仮設住宅に住んでいた人が別に住まいを構えるようになると、ときたま顔を出すだけのボランティアができることもなくなっていった。お世話になった現地の方が「もう思い出してくれるだけで十分だから」とおっしゃっていたこともあり、2015年が最後の福島訪問になっていた。
今回福島に行こうと思ったのは、一部で帰還が始まった原発周辺地域の現在の様子を知りたかったからだ。現在の茨城の自宅からは車で右折、左折を1回ずつして、あとは国道6号をまっすぐ北上すれば浜通りに着くので、行くと決めたら難はなかった。早朝に家を出て、日がのぼるころ北茨城に差しかかった。海沿いでところどころ広い更地になっている場所が確認できた。そこまで津波が浸水したことが想像できた。朝食はいわき市を出たあと、どこかで適当にとることを考えていたが、あてにしていた楢葉町の道の駅はまだ開いておらず、牛丼チェーンなどは見る影もない。コンビニでおにぎりを買った。ほかの客は大柄な男性ばかりだった。
北上を続けると、町の様子はさみしくなるばかりだった。ショッピングセンター、焼き肉店、結婚式場などの建物が出てきても、看板は色あせ、地震のためかまたは経年劣化のためか損壊している。そのなかにいくつか新しい看板のかかった建物もあった。見てみると、どれも「〇〇原子力」という原発に関連する会社のものだった。
双葉町の帰還困難区域に入った。両脇の道にフェンスがたてられ、立ち入ることはできない。自動車、バイク以外の通行は禁止されているため、まったく人の姿はない。すれ違う車のほとんどは、荷台を覆ったトラックかパトカー。震災直後は、津波被害の跡を見て、これが日本で起きていることかと驚いたが、今回もどこか別の国に来たような不思議な感覚にとらわれた。
帰還困難区域を抜け、南相馬市の道の駅で折り返して、海沿いの道を通りながら、浪江町に向かった。津波の被害を直撃した海沿いでは防潮林をつくるための大がかりな工事が行われていた。かさ上げをして整地したあとに植林していく予定のようだが、苗木が植えられているのはまだ一部。最後に福島をたずねたときに、「オリンピックの開催が決まって、人手が集めにくくなっている」という話を地元の人から聞いたことを思い出した。
帰還困難区域の外にある「道の駅なみえ」で名物の「なみえ焼きそば」を食べた。太麺が特徴で腹持ちのよい、なみえ焼きそばは、労働者のために考えられたメニューでB級グルメグランプリを受賞している。お皿には「馬九行久」という文字が書かれていた。「うまくいく」と読むのだそうだ。店内では地元の人たちがたくさん食事をとっていて、少しだけにぎわいがあった。近くにあった浪江町唯一のスーパーで、なみえ焼きそばをお土産に買った。
浪江町は沿岸部から内陸部へ横に広い形をしている。道の駅のある沿岸部は、帰還が可能だが、内陸は帰還困難区域で、帰ることはできず人が歩くこともできない。内陸部へ向かって、国道114号を車で走った。114号沿いにある津島地区は、人気テレビ番組でたびたび登場したDUSH村があった土地でもある。小川のせせらぎが聞こえる、絵に描いたような美しい場所だった。脇道はどこもフェンスでふさがれているため、地区の全体像はわからないが無人になった牧場や窓ガラスが割れたままの家もあった。津島地区は避難先で心の不調を訴えている人や、アルコールの摂取量が増え体調を崩して亡くなった人が多いという。6号よりもずっと車の量は少ないが、パトカー、警備車両、除染土を運ぶトラックが絶えず行き来していた。
その後、双葉町にある「東日本大震災・原子力災害伝承館」(福島イノベーションコースト構想推進機構運営)に行った。除染を集中的におこなった成果と言うべきか、双葉町のなかで駅前とこの記念館の周辺だけは、人が常時立ち入ることができるようになっている。記念館のとなりには、コワーキングスペースが入った産業交流センターという建物もある。ただ、その正面には除染した土を置く中間貯蔵施設があり、黒いフレコンバックの山が駐車場からも丸見えだった。
記念館の最初の展示には3.11からの経過を追ったパネルがあり、その上には写真が並んでいた。展示を見ていると近くにいた係員の男性が「この写真はまちがいです」と言った。男性は70代くらいで、言葉のイントネーションからして、地元の人だろう。男性が言っていた写真は、防護服をつけた人が津波被害のあとで捜索活動している写真だ。「どこから持ってきた写真かよく知らないんですけど、このあたりは捜索はしていないんですよ。このころは」。この地域の沿岸は津波の被害を受けて、行方不明になった人も大勢いた。けれど、3月12日に福島第一原子力発電所の1号機の原子炉建屋が爆発すると、原発から半径30㎞圏内は自衛隊の立ち入りも制限された。1か月もの間、行方不明者の捜索はほとんど行われなかった。自衛隊が30㎞圏内に初めて入ったのは4月18日。20㎞圏内は5月1日だった。私も同じころ30㎞圏内で家族をなくした男性と一緒に泥かきをしていた。だから、当時の様子はよく覚えている。家という家が流されたその場所からは、原子力発電所の上空に向かってヘリコプターが行き来している様子がよく見えた。原発さえなければ、もっと救えた命もあったはずだと思った。
けれど、撮影日も撮影場所もわからない、ストックフォトからかき集めたような写真の展示は、その事実をうやむやにしているように見えてならない。
「そういうところがね、いろいろあるんですよ」男性は重ねて言った。ほかのどの展示品よりも何よりも、男性の言わずにいられなかったその言葉が響いた。
伝承館を出ると町内放送が流れていた。一時帰宅している人に向けたアナウンスだ。帰宅時間が迫っているので、スクリーニング場に集まるようによびかけている。放射線量を確認してから避難先(あるいは新たな定住先)に帰るのだ。震災直後は、一時帰宅する人の姿を報道でよく見ていた。ほとんど報道されなくなった今も、それが日常となって継続していることにはっとした。
来た道を引き返した。水戸市に入ったころには、午後8時を回っていた。前日に県から飲食店へ時短営業の要請が出ていたため、いつもよりも市街地は薄暗かったと思う。それでも、数時間前までいた原発周辺の地域にくらべればずっと明るく、生活感があった。浪江町では帰還は始まったものの、人口は震災以前の10分の1ほどだという。若い世代は少なく、持病を抱えた高齢者も帰りたくても帰れないのが現状だ。
世界中がコロナ禍に右往左往しているなか、震災から10年が経過し、被災地や原発事故の報道はますます減っていくだろう。けれども、これは私にも電気を供給していた福島で起きていることだ。そして杞憂であってほしいが、原発立地県に暮らす自分の身にもいつか降りかかることかもしれない。故郷の生活を奪われた人に対して、これからできることはあるだろうか。未来に向けて何を学ぶべきだろうか。自分に問い続けていきたい。
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