南三陸町を応援するキッカケ
2011年4月19日
二日前に笠岡商店街で開催されたイベントに参加した。フリマの商品を集めるためでもあったが、ぼうさいネットワークについて色々と教えてもらった。
そして、その時に市役所の守屋さんから
「同じ支援をするなら顔が見える支援をしませんか!」と言って南三陸との繋がりについて話を聞く。守屋さんは3月に実際に南三陸に行って来ていた。今の被災地の様子や4月末に福興市が開催される事、それに笠岡からも参加することなど教えてもらった。
感動した。胸が痛くなった。自分たちで集めたお金を日本赤十字に届けるのではなく南三陸に届けて貰えば!南三陸町の皆さんの為に使ってもらえれば良いんだ!そう思った。
そして19日の朝に届いた笠岡商店街の福井さんからのメール、このメールが無かったら私が南三陸町と繋がることは無かったかもしれない。
こんど南三陸にぼうさいネットワークから15個テントを寄贈します。なんでテント?
かも知れませんが、復興テント市に使うためです。
テントは流れちゃいましたんで。まず志津川の人たちでテント市を行います。
うまく行ったら5月に南三陸町主催で行います。
人口の半分がいなくなって町として成り立っていかないかもしれない場所で、本当の希望の微かなひかりです。
南三陸のネットワークの中心人物だった方は、低い場所にすんでいる年老いた両親を迎えに行き、高台の家で安心したところを津波にのまれました。息子さんはふと外に出て思いもしなかった高さの波がくるのを見て、声をかける時間もなく、もう逃げることしか出来なくて、裏山をよじ登り助かりました。
そんな人たちの気持ちがどんなものか、想像もつきません。泣きそうになります。
亡くなったその方が参加したぼうさいネットワークが今機能しています。
ぼうさいネットワークと言っても商店街のほんとに2、3人の集まりです。
多いところでも20人くらい。でもそんな人たちが集まって支援を開始しています。
たった3人ほどの人が約束した事を守ろうと1000数百人の人たちの幸せを願って非力な力をかき集めています。本当に非力ですが。
昨日のぼうさい朝市にも一週間ほど前に開催するからこれるか?
と言ったら24人がやってきました。
山形県から鹿児島県まで。何かあったらかけつけるというたった一つの約束のために。
そういう人たちがいる以上きっと被災地の皆も立ち上がるはずです。
いつかWEBに書こうと思ってるんですが、酒田の皆さんなんですけど。
どう見ても動くはずのないネットワークを動かし始めました。
それもすぐに行動に出るという信じられない方法で。
どんなに冷静に考えてもどんなに過小評価しても僕はこれを「奇跡のネットワーク」だと思っています。
映画だったか小説だったか忘れましたが、奇跡はもうおこらないと言う相手に答えてこう言います。
今も奇跡は至る所で起こっていますよ。 ただそれが奇跡だとわかる心さえあれば貴方にも見えます。
僕にはまわりの皆の動きが奇跡に見えます。本人たちはそうじゃないというでしょうが、今回の酒田の皆の話(間違いなく我々のヒーローです)も書いておきたいなと思っています。
以上、コピペです。
福井さんの言葉はとても重い。
この南三陸の繋がりに、笠岡商店街の中で代表として動いている加藤さん、心から南三陸に寄り添い一生懸命に活動されている。市役所の守屋さんも尊敬する人の中の一人だ。
そして、私が更に心から尊敬するのは笠岡の商店街の中で呉服店を営みながらパソコン関係の仕事をしている福井さん。今は呉服店はやっていないが今でも守屋さんが活動する時、パソコンの関してのサポートはほぼ福井さんが絡んでいる気がする。
決して表には出ず、いつも裏方で動き回っている。冷静で物静かでとても真面目で。実は私のパソコンの先生でもある。その福井さんからのメールを読んで私も一緒に南三陸町を応援したいと思ったのだ。
この日から、南三陸の復興を願い活動をスタートした。自分が出来ることがあれば何でもお手伝いしようと心に決めた。大好きなゴルフ仲間と義援金を集めようと相談もした。まだ、名前も知らない顔も分からない、南三陸町の場所も良く分からない、そんな状況の時だった。守屋さんの言う顔の見える支援がスタートしたのだ。
今思えば・・・まさかこんなに南三陸町が、南三陸町に住む人が、それにかかわる沢山の人が大好きになるとは思わなかった。人生とは不思議なものである。