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高校時代の友人と5年ぶりに会った

 あることがきっかけで高校時代の友人(以下A)と新宿でランチをすることになった。お互いに大学、大学院の卒業を控える3月だった。5年ぶりの逢瀬ともなれば、5年間の空白を埋める作業から始まる。

「5年間何してたの?」Aが尋ねる。「サンフランシスコの語学学校に1年間くらい行っていた」と私は答える。するとAは「あー。皆やってるやつね。日本人同士でつるんで英語力が向上しないやつだ」と返事をした。
 
私はこの回答に懐かしさを覚えた。Aは高校当時からこういうやつだった。デリカシーがなく、偏見がすごい。当時と異なるのは、「Aの言葉に対する私の感じ方の違い」だった。当時は、簡単に言うとなんとも思わなかった。いや、恐らく毎日顔を合わせていたから感覚が麻痺していたのだろう。しかし5年ぶりのAの言葉には、モヤモヤとする感情が残った。
 
その後我々は新宿の街を2時間ぐらい徘徊することになる。そこでインスタグラムの話になった。Aはインスタグラムをやっていなく、私はそれをやっている。私はAにインスタグラムを何の気なしに進めてみた。そこからの彼はすごかった。やらない理由だけではなく、インスタグラムをやることが如何に悪でそれをやっている人は如何に愚かなのかを語ってきたのだ。
「人の欲求には5段回あって・・・」
「インスタはその3段回目で・・・」
「1段回目の欲求以外は生産性がなくて」

私はそこで確信した。「こいつは知識は持っているが自分の知識の中でしか生きることができてないんだ。自分が認めた知識の外で行動する人間を、許容できないんだ」と。

私はAが言うように、「みんながやっている留学」を確かに行った。しかし私は、そこで何にも変えられない経験ができたと思っている。それこそ、Aが身に付けていないであろう他者理解の幅広さは(サンフランシスコという土地柄)確実に学んだ。Aは、自分自身は経験してもない私の掛け替えのない思い出を踏みにじったのである。だから私はAの言葉に感情が動いたのだ。

「価値観が異なる人間は近くにいた方がいい」
とは全くその通りだと思う。ただ履き違えてはいけないのは、

「価値観が異なる人間の価値観を否定してはいけない」ということだ。

ちなみにAはものすごい大企業に就職する。

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