カッコいい辞典「け」
『結界』である。
現実に即して例えるならば、鳥居なぞが最たるものであろう。
鳥居は神様の領域と人間の領域を分ける結界である。
鳥居の色形を見てお分かりいただけるであろうが、デザイン性がとてもカッコいい。
これは理由と言う下世話なことをいうよりももっと本能的なところへ訴えてくると言った方が俄然腑に落ちると思われる。
感覚然としたところであるからして分からぬものはわからぬであろう。
よし、そうだとしてこのカッコいい辞典はそもそも余の感覚に頼るべくして記されるもの故、分からぬままでもそのような思想があるとだけ思い、楽しんでいただければ幸いである。
さて、結界のカッコよさ特に鳥居のカッコよさは先にも述べたとおりだが、余としてはこの結界を何としても自分で自由自在に出したい所存である。
と言うのもここだけの話、以前一時的にではあるが結界を出したことがあるのだ。
だがその結界と言うのが余のイメージのものとは得てして異なる不本意極まるものであり、畢竟、カッコよくなかったのである。
何故ならばその結界とは、余の体臭であったからだ。
しかも良き香ではない。異臭、悪臭の類なのである。
その時分に余と出会った友人がその臭いを形容したところ、
獣のそれであったとのこと。
だがここに特筆すべきは、決して余が不潔にしていた為ではないということだ。
だがその臭いの種類は不潔なもののそれであった。
どういうことかと言うと、余はその時分もちろん風呂には入っていた。
しかも人よか長めに入っていた。
だが疲れていた。
常人の範疇を超えた疲労困憊である。
読者の方も経験あるやもしれぬが、常識を超えた疲労困憊の身体と言うのは、勿論内臓も疲れている。
疲れ切った内臓は内から外へと異臭を放つ。
そう、当時の余は内臓臭によって鼻がよじれるほど臭かった。
その為、電車なぞに乗り座席の端っこを陣取った際には、必ずとなり一つ空席ができ、他のスペースには人が満ち満ちに座っているという状況が出来上がっていたのだ。
だが不幸にも人間と言うのは自分の体臭には一向頓着がなくできているもので、当時の余もご多分に漏れず己が異臭をまき散らしていたとはつゆ知らず、人生を謳歌していたのだった。
自覚がないものだから、自分の隣の座席が必ず空いていることの意味が分からぬ。よし、そうだとしても自分なりの結論は出しておきたいと思うのもまた余の性質。
分からぬなりに己の出した結論と言うのが、『結界』だったのだ。
原因は分からぬが余は結界を一時的に発動させてしまっていると錯覚してしまったのだ。
断言しよう。
こんなの結界じゃない!!
臭すぎて人払いができてしまうことの何がカッコいいというのか。
非常に不快な追憶である。
余には理想の結界がある。
それは変にポーズや道具なぞ使わずに双眸をカッと見開き、体外に白煙が立ちのぼり、その煙が一瞬のうちに霧散する。すると結界が出来上がっている。
これであろう。
この演出こそカッコいい結界のそれである。
余計な戯言や挙動は無し。無駄のない運びで作る結界こそ尊重すべきものである。
名前も付けよう。
『瞬』(しゅん)
由来は瞬く間に築き上げ、瞬く間に影響を及ぼす。
カッコいい辞典、余の技も一つできた。実に喜ばしいことである。
読者の方も結界を張りたいときは、心中において『瞬』を唱えよ。然るに白煙とともに各々の思う結界の効果が現れよう。
先の余、内臓臭が漂っていた時分は定めし白煙ではなく黄色い屁のような気体を身体から吹き出しつつ往来を闊歩して人払いをしていたのだろう。
定めし、黙々と煙を吐き出す「列車」の様な
いわゆる、「屁っ車」であろう。
なんと心やましい、不甲斐ない体たらく。
然し考え得るに、現状そこから身体も調子を取り戻し万事良好となった余は一つ上のステージに進出したともいえる。
カッコいいを極めるための階段は着実に踏みしめているのだ。
底なしのポジティブを露呈したところで手仕舞いとする。
ここまでの読了誠にありがとうございます。
また逢う日まで。