少数与党内閣 ー羽田内閣の事例ー
参議院の『審議概要』(第129回国会【常会】:参議院審議概要:参議院)の冒頭には、このような記述があります。少数内閣の直近の事例は、ここにあります。この『審議概要』を基に、時系列に当時の出来事を並べ直して示したいと思います。
1.細川内閣の苦闘
・平成6年(1994年)1月31日、第129回国会(常会)召集。
・長引く不況対策のため、6兆円規模の減税実施等が行われることとなった。その財源措置としての消費税率の引き上げに対しては反発が強く、細川総理は、消費税にかえて一般財源としての国民福祉税を創設する税制改革草案を2月3日未明の記者会見で発表した。しかし、これに対しても批判が強く、連立与党代表者会議は、国民福祉税構想を白紙撤回した上で、減税財源については連立与党の協議機関で検討し、年内に税制改正法案の成立を図ることで合意した。細川総理も撤回の意思を表明し、国民福祉税構想をめぐる混乱について陳謝した。
・5年ぶりの大型所得税減税を中心とし、かつ景気浮揚のための総合経済対策の財源措置等を盛り込んだ総額15兆2,500億円と過去最大規模に及ぶ平成5年度第3次補正予算が2月15日、国会に提出された。衆議院では18日から3日間、また参議院では23日の1日間審議が行われ、同日、可決、成立した。
・第128回国会(臨時会)で提起されていた政治改革関連4法案の修正事項については第129回国会で処理することとされていたが、2月24日、政党への公的助成の上限枠の設定等の全項目について最終的に合意に達した。これらの合意事項を盛り込んだ政治改革関連4法の改正案は、衆議院政治改革調査特別委員長提出法律案として提出され、3月1日に衆議院本会議で、4日には参議院本会議でそれぞれ可決され、成立した。
・6年度総予算が提出された3月4日、衆参両院の本会議で細川総理の初の施政方針演説、羽田副総理・外相の外交演説、藤井蔵相の財政演説、久保田経済企画庁長官の経済演説がそれぞれ行われた。この中で細川総理は、政治改革が一つの節目を迎えた今、国際社会における責任を果たすためにも、経済改革、行政改革に力点を移す考えを表明し、その上で、税制については国民負担と税制のあり方、減税とその財源等についての議論を深め関連法案を年内に成立させる決意を表明し、また地方分権に関し、基本理念、課題、手順等を明らかにした推進大綱の年内策定の考えも示した。
・一般会計で総額73兆817億円に及ぶ平成6年度総予算が国会に提出されたのは3月4日であった。総予算の提出が3月にずれ込んだのは27年ぶりのことであるが、これは、細川連立政権がさきの臨時国会で政治改革関連改正4法案の成立を最優先させる方針をとることとし、平成6年度総予算は越年編成とすることとしたこと等によるものである。
・3月7日、8日及び9日の3日間、衆参両院で政府四演説に対する各党の代表質問が行われた。その中で、さきの国民福祉税構想の白紙撤回問題、予算の越年編成、日米首脳会談の決裂、内閣改造断念等での細川総理の対応、長引く不況対策、規制緩和、活力ある福祉社会の実現、米不足と自由化受け入れ等の諸問題について議論が展開された。
・しかし、前国会に引き続き、細川前総理の佐川急便からの1億円借り入れ問題をめぐり衆議院予算委員会は審議入りが決められず、施政方針演説、代表質問終了後、2カ月以上も予算委員会で平成6年度総予算の提案理由の説明が行われないという事態となった。
・平成6年度総予算の年度内成立が不可能となったこと等から、政府は50日間の暫定予算を組み、3月29日に国会に提出した。一般会計の歳出規模が過去最大の11兆514億円となる暫定予算は、30日に衆議院予算委員会及び本会議で賛成多数で可決された。参議院では、4月1日、委員会で可決、直ちに本会議に上程され、賛成多数で可決、成立した。
2.細川内閣総辞職と羽田内閣の成立
・細川総理は、6年度総予算の審議のめどが立たず空転している中で、4月8日、新たに表面化したみずからの資金運用疑惑問題にかかわる責任をとる形で連立与党党首・代表者会議の席上で辞意表明を行った。総予算審議に入る前に予算編成時の総理が辞任したことは、極めて異例のことである。
・後継総理選びの調整は難航したが、4月25日、衆参両院の本会議で羽田副総理・外相が新総理に指名された。
・羽田新総理の選出直後、新生、改革、民社、自由、改革の会の5会派による衆議院の新統一会派「改新」が結成された。しかし、これをめぐって社会党が、事前に協議がなかったとして反発し、連立政権を離脱した。
・その後、羽田新総理及び連立各党による社会党の政権復帰を求める説得工作が行われたが、ついに社会党は連立政権に復帰するに至らなかった。こうして、衆参本会議での総理指名から3日後の4月28日、羽田新連立政権は「少数与党内閣」として出発することになった。
・5月10日には、羽田新総理の所信表明演説が行われ、新政権の基本姿勢として、改革と協調を掲げて政策を進め、細川前内閣が提案した政治、経済、行政等の諸改革を継承し、その実施に全力を尽くす旨、また前内閣が提出した平成6年度総予算を引き継ぎ、責任を持ってその実施に当たっていくことを表明した。
・これに対して、衆参両院本会議で、5月12日、13日及び16日の3日間、各党の代表質問が行われた。
・5月18日、暫定予算が期限切れとなるのに伴い、その対象期間を6月29日の会期終了日まで40日間延長する平成6年度暫定補正予算が、国会に提出された。暫定予算の補正は、平成2年度以来4年ぶりであり、あわせて暫定期間の90日間は戦後4番目の長さである。
同日、衆議院予算委員会及び本会議において賛成多数で可決され、20日に参議院予算委員会、本会議でともに賛成多数で可決され、成立した。
・6年度総予算の審査は、5月17日に衆参の予算委員会で国会提出から80日余を経過して提案理由説明が聴取されたのに続き、23日から衆議院予算委員会で総括質疑が開始された。総括質疑は9日間行われ、その後6月3日に公聴会、6日にゼネコン疑惑に関する集中審議、7日に分科会が行われ、8日の締めくくり総括質疑後、委員会及び本会議で賛成多数で可決され、参議院に送付された。
なお、本会議において自民党から、6年度総予算を撤回の上、編成替えを求めるの動議が提出されたが、本動議は賛成少数で否決された。
参議院での6年度総予算に対する予算委員会審査は、6月9日から21日までの8日間、総括質疑が行われた。この間の20日に公聴会、21日から2日間委嘱審査がそれぞれ行われた。さらに23日に締めくくり総括質疑が行われ、同日、予算委員会、本会議でともに賛成多数で可決され、成立した。成立時期としては、戦後4番目に遅い記録となった。
3.羽田内閣総辞職と村山内閣総理大臣の指名
・6月23日、6年度総予算が参議院本会議で可決、成立したことを受けて、自民党は、少数与党内閣であり民意を反映していないことや二重権力構造と強権的政治手法で支えられた民主主義に背く内閣であること等を理由として羽田内閣不信任決議案を提出した。
・羽田総理は、解散は政治空白を招くとともに中選挙区制での総選挙は政治改革に反するとし、25日午前11時過ぎ、臨時閣議で総辞職を決定した。
・会期終了日の6月29日、衆参両院本会議で内閣総理大臣の指名選挙が行われた。衆議院では、記名投票の結果、衆議院議員村山富市君241票、海部俊樹君220票、不破哲三君15票、河野洋平君5票、無効23票で、いずれも過半数に達しなかったため、村山、海部の両議員による決選投票が行われ、村山議員261票、海部議員214票、無効29票で、村山富市衆議院議員を内閣総理大臣に指名するに決した。
参議院本会議では、村山衆議院議員が第1 回日の記名投票で過半数を超える148票をとり、内閣総理大臣に指名された。
こうして、村山富市衆議院議員が81代、52人目の総理大臣に選出された。
4.第2次石破内閣の発足
以上が参議院『審議概要』の記述を抜粋し、時系列に並び替える等、若干の手を加えたものです。羽田総理は、選出の際は、多数で選ばれてました。
第215回国会(特別会)において、第2次石破内閣が発足しました。
衆議院における決選投票の結果は、石破茂君221票、野田佳彦君160票、無効84票でした。過半数は233です。
少数与党内閣においては、特に予算を成立させるのは大変なことです。野党と何らかの合意をして賛成に回ってもらわなければなりません。
11月2日、3日に行われた日本政治法律学会研究大会において白鳥浩理事長は、「日本の政治も新しい時代に入った」と述べています。羽田内閣は、予期せぬ少数内閣化と言えなくないですが、それと違って最初から少数与党内閣として政権運営をしていこうという内閣の誕生は、まさに「新しい時代に入った」と言えるものではないかと考えます。