
茅ヶ崎南湖を歩く。まち歩きの沼に。
岩槻のまちめぐりに参加した件を以前noteに記した。まちめぐり、まち歩きには、いろいろな要素があると考えて、その経験のために、ここのところ、まち歩きのイベントには、タイミングが合えばできるだけ参加しようと思っている。その一つとして、先日、茅ケ崎の南湖地区を歩く機会があった。これが、これが、実に、実に、頭で考えるより、「面白い!」「え、何!」という、いろいろなことがあって、心が動かされ、沼にはまりそうである。
1.スタートは、パラオの南洋神社⁉

2024年6月の最終土曜日。この日の集合は、茅ケ崎の十間坂というところにある第六天神社。ここで、まち歩きの仲間の、まで(萬里小路)さんご一家と合流。
神仏混淆時代の第六天魔王を奉っていたのが、神仏分離で神代第六代の男女二柱(オモダルノミコト・イモアヤカシコネノミコト)を祭ると記されている。関東のみに存在。第六天魔王は、織田信長が篤く信奉していたとされ、身長2里(8千メートル、エベレスト級)、年齢1万6千歳。超強力な存在を祭ったのが起源かなと思いながらも(ウルトラセブンは1万7千歳とされ、年齢は近いが、セブンの身長は40メートルなので、どれだけの超巨人だったか。まあ、単に大きいということを2里と表現しただけかもしれないが。)、なかなか頭では理解しにくいところに、そっと、一人の男性が現れ、説明をしてくれたのであった。
最初は、この男性、散歩でもしているこの神社の氏子さんかなと思ったのだが、よくよく話を聞くと、元宮司さんのようであった。父親が能登の一宮神社の宮司だったが、パラオに官幣神社として建てられた南洋神社に「転勤」。戦前の国家神道の下、宮司は世襲ではなくなり、公務員の扱いで、転勤があったそうだ。そのパラオの地でこの男性は生まれたようだ。そして戦火が激しくなる前に家族で帰国。寒川神社を経て、この第六天神社に来られたようだ。(「ようだ」等としているのは、細かく確認するのもなんだかなと思って確認しなかったからである。)
その後も、茅の輪くぐりのことや、社殿の後ろにある、パワースポットとされる黒松(かつては、海からも見えていて、漁師にはランドマークであった)の話等をしていただいた。

神社を後にして振り返ると、すぅっといなくなっていらっしゃつたので、幻だった気もしなくはないが、写真にはにこやかに写ってらっしゃっるので、現実なのであろう。さりげなく現れて、ご説明いただいたことに感謝である。

実は今回のまち歩き、行く先々でいろいろと説明をしてくださる人に出会うこととなる。
2.南湖の道を行く。
国道1号を渡って、南湖方面へ。
JRの南側、国道や鉄砲道等以外の茅ケ崎の道の標準スタイルと言える、あまり広くない道幅の道を行くと、興味をそそるお店がちらほらと。合わせて、神社も多く目に入る。茅ケ崎の中では、昔から、神社を中心としたコミュニティが存在していたエリアなのかなと思えた。




その中で、まず吸い寄せられるように入ったのが「やくも」さん。1919年創業の和洋菓子屋。地域のスイーツに目がない私としては、「浜降まんじゅう」と「サザンCどらやき」は買わなければならないもの。(「シン・湘南スイーツ」というHPを持っている。)
https://shin-shounann.jimdosite.com/





女将さん、お店の歴史、商品の話、いろいろしてくださった。この日は最終土曜日の「やんべえよ」の日で、商品は割引に。この「やんべえよ」の木の表示、他のお店にもあったので、気になっていたが、商店会のお店に置かれているとのこと。「10月にお祭りがあるから、良かったら来てね。」と。

3.萬鉄五郎の笑顔
更に行くと、昭和の古民家を改装した素敵なお店に。雑貨販売、カフェレストラン、そして宿泊施設もあるとのこと。その中で目に留まったのは、お店の片隅の図書コーナー。その一角は茅ケ崎関連の本。そして、萬鉄五郎の絵と肖像写真が表紙の本。
その週末、私が楽しみに見ているテレビ東京の「新・美の巨人たち」という番組で、萬鉄五郎を取り上げると知っていたので、何事かと思って、そこにあった本を手にした。萬鉄五郎も茅ケ崎の関係者⁈




4.デープなお店が続く
更に行くとデープなお店が続く。
お店全体が現代アートとも言うべき(笑)奈須美術業。


鉄砲道との交差点近くでは、骨董品屋なのか、何のお店か分からず、店頭にあった夏の着物を改修した黒い羽織を2,000円で購入することとなったお店が。ここでも「10月にお祭りやるから来てね」と言われる。「「なんこ」って、南湖院の先生が言ったのでそう言われることが多いけれど、私たちは、「なんご」って呼んでるからね、このまち」とも。


そして令和の時代に絶滅危惧種と思われる駄菓子屋さん。
「値上げが続き、子供たちから、次は何が値上げしそう」と聞かれる等、話してくれた。

どうも、南湖は、茅ケ崎の他の地域と比べて、古くからのコミュニティがあるまちで、人に優しく、話好きの方が多いようだ。まち歩きする先々に、説明員が待ってくれているような感覚に陥ったのである。
5.南湖院
いよいよ今回のまち歩きのゴールとも言うべき「南湖院記念太陽の郷庭園」へ。東洋一のサナトリウム(結核療養所)と言われた南湖院(1899年から1945年)の跡地。茅ケ崎の歴史で欠くことのできないところだが、今まで来たことがなかった。



そこに入り、景色を見た途端、絶句。
何とも言えない、癒しの感情が心に広がった。

萬鉄五郎も結核を患い、茅ケ崎に来た。茅ケ崎では、中国風の南画を描いていたとのこと。あの本の表紙の写真で椅子に座って笑っているのも茅ケ崎でのことと思われる。
医学的には、癒されることは少なかったかもしれないが、茅ケ崎の空間は、精神的には多くの人を癒したのではなかろうかと、ここに来て思った。萬鉄五郎も含めて。あの写真の笑顔はそういうことを示しているのではないか。
ここからは、富士山もきれいに見えるらしい。この日は曇天で見えなかったが。富士山の姿も、更に多くの心に癒しをもたらしたのであろう。

今回のまち歩きは、知識を得るというより、南湖の人々の親切な心から来る話に接し、また、南湖院の、心のこもった建物配置等の景色に接し、実に心を動かされる、心を満たすものになったと考える。
最後に話かけてくれたのは、医師高田畊安が戦前に作った碑であった。

ここには、神武天皇とダビデ王が出てくることは分かるが、他は良くわからない。ただ、サナトリウムを運営する医師が戦前の国家神道の下、自身のキリスト教信仰を深く掘り下げ、独自に融合させつつ、療養にあたっていたのではないかということがうかがわれる。
あとでネットで調べると、『南湖院一覧』が「皇室に対する不敬」により1940年12月、発売頒布禁止になったとされ、1942年9月再び発禁となり、1945年2月に高田は、特高警察に呼ばれ、その後の説教中に倒れ死去したとある。
宗教観の部分が不敬とされたようであるが、人々を救いたい、医学的にも癒したいという気持ちからの思考の到達点が、この碑であろう。今回のまち歩きの最終地点でも、南湖の人から、時空を超えて話を聞くことができたと考える。