人生を変えた占い師との出会い⑤
僕の人生を大きく変えた占い師との出会い
嘘のような本当の話の続編⑤です。
占い師に「君、ラーメン屋になりなよ」と言われてラーメン修行へと飛び出した。そこで待ち受けていた苦悩の日々。
~社員編~
晴れて社員に
僕にとっては過酷だった、朝の仕込み試験をなんとかクリアして念願の来来亭の社員になることができた。
しかし喜びも束の間、社員になれば今までのバイトの比にはならないほどの忙しい日が始まった。
とにかく動け
社員になったからといって、僕の手際が良くなった訳ではない。
朝の仕込みでいうと、皆が5時出勤で出来ることを
僕は3時前からやり始める。
店の営業時間が23時までなので、片付けをして店を出るのが深夜1時
その2時間後には僕の仕込みは始まる。
とにかく手を動かすことだけを考えた。
夜が明けて、外が明るくなってくると思い通りに進まない仕事に、冷や汗が出てくる。
過去最高給与
辛い日々の中で、良いこともあった。
来来亭では社員になれると初任給25万円なのだ。
店長になると50万円
(店舗のチラシにも載っているので公開しても良いはず)
これは高卒で働いてきて、1番高い給与だった。
ちなみに当時の鳥取の初任給は15万円が相場だったので、かなり嬉しかった。
でもね!僕の中で大きな疑問があった。
時給800円?
勤務時間がとにかく長かった。
仕込み以外の日は朝10時に出勤する。途中で中抜け休憩をするが、また夕方から深夜1時くらいまで働く。
休日は仕事を覚える為に店にいたり、他店に勉強しに行ったりする。プライベートな休みもあったがほとんど記憶にない。
寝不足でフラフラになりながらも、とにかく僕は仕事を覚える為に必死だった。
いま36歳になった今でもこの時ほど、仕事をしたことはない。
これはあとになって思ったことだが、当時は25万円もらえて嬉しかった。しかし、店にいた時間から時給を計算してみたら
なんと800円だった‥
これには驚いた。
*誤解しないでほしいのだが
決して働かせすぎだ!今で言うブラック企業だ!ということを言いたい訳ではない!ここで働いていた人は皆、自分の仕事に誇りと自信を持っていた。
ラーメンが好き、店が好き、お客様が好き。
いろいろあるが人に喜んで貰えることが大好きな人達だった。だから時給がどうとか考えている人はいなかった。
それほど愛された店だった。
必死に打ち込む
当時の僕は23歳。
まだまだ体力もあったので、少々寝なくても平気だった。
いま同じことをやれと言われても、きっと出来ないだろう。
若いうちに、ふらふらになって必死に働くという経験をしたことは今となっては貴重だ。
とにかくが必死に何かに打ち込むということがどんな事なのか、身を持って体験させて頂いた。
自分なりの夢や目標を持っていないと出来ない。
愛が足りない
僕はとにかくいっぱい怒られた。
それまでやってきた仕事は、工場や土木現場だった。対物の仕事なので上手く出来れば問題なかったので、僕はそつなくこなしていた。
しかし、ラーメン屋は対人の仕事。
人が相手なので形だけ上手くやるだけでは、ダメだった。
毎度、店長から言われ続けた言葉ある!
それは
「おまえには愛が足りない」
今になってやっと分かるようになったが、当時は分からなかった。
賄い料理
休憩になると、同僚やバイトの子に賄いを作る。
僕は練習でよく作らせてもらっていた。
手際も味も、日に日に上達していたはずだ。
しかし、店長からは毎回ダメ出しを受けていた。
理由は
「愛情が入ってない」
店長いわく、僕の料理からは相手を思って作ってることがまったく伝わらないという。
僕は味付けはしっかり出来てるのに、何がダメなのか分からなかった。
なんで怒られるんだと不満に思っていた。
ずっと心に残った言葉
来来亭を辞めて10年以上経った今でも忘れられない店長の言葉
「おまえには愛情が足りない」
何度言われたことだろう。
ラーメン修行中は、怒られない日はなかった。その度に悔しくて、悔しくて、出来ない自分に腹の立つこともあった。
それも今となってはかけがえのない経験だ。
あの時、店長が怒ってくれていたのは、僕に早く上手くなって欲しいという愛情にほかならない。
そう思うようになったのは、30歳になったころだった。
その後、僕は社員になってから数ヶ月で来来亭を辞めたのだが
店長が僕に言い続けた
「おまえには愛情が足りない」
という言葉は10年という時を経ても、ずっと僕のなかに残っている。
いよいよ、この連載も大詰めです。
次回、「退職~僕のなかで変わったこと」
お楽しみに!