未知や違いが世界を広げる 魔法つかいプリキュア!感想
先日、魔法つかいプリキュア!を全話見終えたため、その感想を簡単に書き残そうと思います。
まだ履修した作品はプリアラとまほプリの二作品のみのにわかファンですが、どうぞよろしくお願いします。
登場人物について
まず主要な登場人物であるところの3人のプリキュアたちとモフルンについて、自分なりに所感を書いていきたいと思います。
最初に朝日奈みらい/キュアミラクルについて。彼女に対する全話を通しての印象は、とにかくすこぶる良い子だということです。明るく優しく、また子供向けアニメの主人公にありがちな成績不振設定も、数学が苦手というだけで他の科目はみな勉強熱心で優秀です。そして何より印象深いのは、何事に対しても好奇心旺盛でフレンドリーな部分でしょう。まほプリを視聴した人であれば誰でも、この作品の大きなテーマが、新しいことや知らないものと出会い視野を広げることの大切さだと感じるはずです。どんなものにも「ワクワクもんだぁ!」と飛び込んでいく彼女は、制作陣のメッセージを直球で表現する存在だと言えるでしょう。
また彼女は、一見能天気に見えて、かなり思慮深い部分があるようにも感じます。特に後半のクールになるとそれが顕著で、ことはという「子供」を守り育てる立場として大人顔負けの対応力を発揮していました。そのため自分は彼女に対して頼もしさや包容力のようなものを感じながらシリーズを視聴していたのですが、それだけに、最終回で二人に会いたいと涙するシーンは非常に印象的です。それまで良い子、大人な子という印象が積み上がっていたからこそ、感情を爆発させるシーンが本当に映えるんですよね。自分の中での株が視聴するうちにどんどん上がり、大好きになったキャラクターでした。
次に十六夜リコ/キュアマジカルですが、みらいが制作側のメッセージを体現する存在であるとすれば、彼女は視聴者側の代弁者だと言えると思っています。彼女はみらいのように何にでも興味をもって飛び込んでいけるわけではない。むしろ固定観念やかくあるべきといった考えが強く、自分の気持ちを正直に伝えることが苦手です。また成績や立場にこだわる一方、自分が将来どうなりたいかというビジョンが明確でなく、そうした悩みにシリーズを通してぶつかっていきます。みらいが成長していないわけではありませんが、まほプリはどちらかと言えばみらいとの交流を通じたリコの成長物語という側面が強いというのが自分の捉えかたです。
そうした彼女の姿は、それを観ている視聴者とも重なる部分が多いと思います。みらいを通じて提示される、新しいものや知らないものに恐れず触れていこうというメッセージに対して、そんなの簡単にいかないし、という気持ちを抱く私たち視聴者は、みらいの積極性や楽観思考に呆れ困惑するリコの目線を通してそれを受け止めます。そして彼女が、第5話のおしくらまんじゅうや第12話の夜空の散歩などのみらいとの交流を通じて自分の頑なさを解きほぐしていく過程を通じて、視聴者も作品のテーマに触れていく。こういう構図がみらいとリコの交流を通じて作られているように感じました。
そして花海ことは/キュアフェリーチェです。序盤のマスコット枠はーちゃんとしての可愛らしさから、変身後の頼もしさ、そして終盤では神的存在としての神々しさまで様々な側面を見せてくれたキャラクターでした。彼女もリコとは別の意味で視聴者の気持ちを写しとれるキャラクターというか、子供の視聴者から私たち大人まで含めてプリキュアに憧れる、応援するという気持ちを作中世界で体現してくれるところが非常に好きです。特に第18話で、倒れたプリキュアを守ろうとガメッツに立ち向かうシーンは、プリキュアの危機を画面の前で眺めることしか出来ない視聴者にとって、彼女を応援したくなる場面だったと思います。
そもそもみらリコ二人の関係性がガール・ミーツ・ガールとして完成されずぎている中に、どのような追加キュアを放り込むのかというのは非常に難しい問題であったことでしょう。その回答として「二人の間の子供」というのは、まず普通の発想では思いつかない大正解です。単に赤ちゃんの頃から育てたというだけではなく、前世の魂の残滓に二人の力と情報が注ぎ込まれ結果生まれたわけですから、正真正銘の血の繋がった子供ということですね。味わい深いものがあります。また普段の精神年齢とフェリーチェ状態の際の差も、とても面白い設定です。ただハロウィン回では「はーちゃん」らしいフェリーチェが見られて、そのギャップもオタク的にとても美味しかったですね。
最後にモフルンについてです。個人的に、今作において最も精神的に尊い存在の一人ではないかと思っています。当初はマスコット枠ですから、どちらかと言えば可愛らしさが強調された存在だと思っていたので、私は序盤ではみらいの妹のように捉えていました。しかし第11話で、授業中のみらリコを呼び出すわけには行かないとガメッツに一人立ち向かおうとしたあたりから、その頼もしさの片鱗が現れてきたような気がします。そしてその黄金の精神ぶりが一番発揮されたのは、終盤のチクルンとの交流に関してでしょう。裏切りとしか言えない行為を働いたチクルンを許し、受け入れるその度量の大きさたるや、脱帽ものです。
考えて見るとモフルンはプリアラのペコリンのように、プリキュアに庇護され、プリキュアに憧れる、その目線を通じてプリキュアの気高さを描くという役割をあまり負っていません(その役割を負ったのがはーちゃんでした)。むしろプリキュアの手が届かない部分を補完する縁の下の力持ちと言うべき存在です。第12話で早くナシマホウ界の学校に慣れようと気負いすぎるリコや、第26話で自分の存在がみらリコの平穏を脅かしてしまうと考えて家出したことはなど、誰かがついていなくては不安な状態の登場人物のそばにそっと寄り添う姿がしばしば見られたのが印象的です。また校長など戦闘の場に居合わせた非戦闘員を守る役目も果たしています。本編でプリキュアとして戦うことはありませんでしたが、彼女は間違いなくまほプリチームの要と言えるでしょう。映画では変身しましたし。
楽曲について
さて、まほプリの大きな特徴として、オープニングの豪華さもあげることができます。オープニングの映像が追加キュアの加入などをきっかけに多少変わることは恒例ですが、まほプリの場合は映像がほぼ一新され、それに加えて曲自体も新しい版に変わるという手の込みようでした。前期が『Dokkin♢魔法つかいプリキュア!』、後期が『dokkin♢魔法つかい プリキュア! part2』ですね。明るい調子の音楽が楽しげな曲ですが、歌詞がまた深くて素晴らしいんですよね。特にCメロの歌詞である「人はね、みんな違う。愛し方や痛みも違う。その違いが『素敵』だって、今なら言える」というところが、とても良い言葉だと思います。まほプリ全体のテーマにも関わり、作品を象徴する歌詞です。
次に前期EDの『CURE UP↑RA♡PA☆PA!〜ほほえみになる魔法〜』ですが、これは個人的にまほプリの楽曲の中で一番好きな曲になりました。あまり詳しいわけではないのですが、一昔前のアイドルソングのような、どこか懐かしくも心惹かれるメロディが魅力的です。また3Dモデルのダンスのクオリティが非常に高く、特にイントロからAメロにかけてのミラクルとマジカルの軽やかな動きぶりは思わず見入ってしまうほどでした。もちろんサビのダンスも大好きですが。そしてそれに加え、サビの最後に「魔法つかいプリキュア!」と歌い上げるシーンの二人の動き、頬を寄せ合い、至近距離で向き合い、片方の手はハート型、後ろの手は恋人繋ぎで踊って、最後には背中合わせになる、あの一連の動作です。愛です。二人の間にある愛情を感じることができます。最高ですね。
もちろん後期EDの『魔法アラ・ドーモ!』も魅力的です。いわゆる電波ソングに近いぶっ飛んだ歌詞と曲調、これぞアニソンという雰囲気ですね。相変わらず3Dモデルのクオリティも高く、特に歌い出しの部分におけるプリキュア三人それぞれの動きが非常に細かく滑らかだと思います。それに加えてダンス映像がかなり頻繁に変わり、観ていて飽きない凝った作りになっていました。前期EDの『ほほえみになる魔法』がどちらかと言えば大人っぽい、美しい雰囲気だったのに対し、こちらは無邪気で楽しい雰囲気なのが特徴的で、天真爛漫なことはの加入後のまほプリチームの様子によくあっていたと思います。作品内のフェリーチェは落ち着いた性格ですので、フェリーチェ形態でわちゃわちゃしているこちらの姿はギャップも感じさせ彼女の魅力を存分に引き出していました。
同じく電波的でいかにもアニソンという雰囲気の曲に、みらいのキャラソン『はなまるの方程式』があります。そもそも別にみらいの数学苦手設定ってそこまで作中でクローズアップされていなかった気がするのですが、なぜキャラソンではメイン要素になっているのか、そういうことを深く考えてはいけないタイプの楽曲です。ただ歌詞の内容が学校の勉強のことを一貫して主題としており、魔法に関する言及がフレーズとしてわずかに挿入されているだけなのは、みらいをナシマホウ界の住人、魔法の世界ではなく現実の世界の住人であると規定する制作陣側の立場が垣間見え、最後の離別展開に繋がっている気もします。
みらいのキャラソンについて書いたので、リコのキャラソンからも1つ好きなものを挙げたいと思います。『オレンジア』です。名曲中の名曲、湿度の高さが一曲だけ段違いのオレンジアです。歌い出しから締めまで、全てがみらいへの告白と言っても過言ではないオレンジアです。作品の展開をなぞっていく歌詞を聴くと、それぞれの場面が思い出され、あの時そういう感情だったんだ・・・・・・!ということを噛みしめることができ、まほプリという作品の解釈を深める上で欠かせない曲であると言えるでしょう。
特に注目したいのは、2番Bメロの歌詞「一緒じゃなきゃイヤだと叫ぶ、君の声は降り注ぐオレンジ。私が私を好きになれる場所」という部分。みらいの隣をそういう風に考えていたのかと思うと、オタクとしては妄想がはかどるばかりです。そしてそのすぐ後の2番サビの入りが「精一杯伸ばした指で、ぴったり触れあう頬で、運命の出会いと分かったの」です。運命の出会いとか言っちゃうんだ・・・・・・!そういうロマンチシズムな言い方、口に出しては言わなそうなキャラですが、内心はそこまで想っていたのかという。最高ですね。
最後にことはのキャラソン(というかフェリーチェのキャラソン)『言葉のエメラルド』の話もしたいと思います。力強く歌い上げるような歌い方、壮大な音楽、ギターが格好良い間奏など、追加キュアとしてのフェリーチェの強さと神秘性をこれ以上ないほど表現している曲です。しかしその中に「いつもどんな時も守られて、優しい日々と交わす約束」のように、みらいとリコに守られ育てられてきたはーちゃんとしての目線が織り込まれているのがまた良いところです。曲の全体的な雰囲気はそれこそ古き良き美少女アクションアニメのアニソンという感じで、懐かしさを感じさせます。こう、具体的に何か似ている曲を挙げられるわけではありませんが、東方Vocalとかでこんな感じの曲を聴いたことがある気がします。そういう雰囲気です。
テーマについて
「ワクワクもん」という世界の捉え方
さて、まほプリという作品のテーマは何なのかということについての個人的な考えは、みらいについて書いた部分で少し吐き出してしまいましたが、新しいものや自分と違う人と触れあうことの大事さ、それを恐れない好奇心であると思いっています。それを端的に表わした言葉が、みらいの口癖である「ワクワクもんだぁ!」であり、苦手な数学を除けば何事に対しても戸惑いや不安ではなくワクワクを感じ取る彼女の姿勢が、このテーマを一番良く体現していることは上述の通りです。またOP歌詞の「趣味バラバラ、ノリちぐはぐ、性格真逆。その違いが『素敵』だって、今なら言える」も、このテーマをよく表わしたものです。
さて、この歌詞で言われている「趣味バラバラ、ノリちぐはぐ、性格真逆」というのは、ほぼ確実にみらリコのことでしょう。楽観的なみらいと生真面目なリコは、確かに真逆の性格をしています。そしてこの二人の関係性と足取りが、みらいの行動とリコの成長によってまほプリのテーマを視聴者に伝える役目を果たしていることは、上述の通りです。プリアラの場合は「大好き」の正の側面を象徴するプリキュアと負の側面を体現するキラキラルをうばう存在たちによる対立軸で話が進んでいきましたが、まほプリは敵方との思想的対立軸はあまり明確でなく、テーマをプリキュア陣営の関係の中に落とし込みんだあたりに、ガール・ミーツ・ガールを丁寧に書こうという制作陣の想いが感じられて好きです。
そのことが非常によく分かるのが、前半の構成ではないかと思います。1クール目ではみらいが魔法学校に留学し、2クール目ではリコがナシマホウ界の学校に転校してくるという展開は、実はかなり珍しいものではないでしょうか。プリキュアやその他の作品でも、主要な登場人物が転校生であること自体はよくあります。ただその場合、転校生の主人公とそれを迎えるメインキャラたち、あるいはメインキャラの一人が転校生でそれを主人公たちが迎えるという構図になるはずです。転校生でなくても、異世界転生とか冷凍睡眠から目覚めるとか、とにかく「新しい世界に飛び込む者」と「それを出迎える者」というのがいます。しかしまほプリではみらいとリコの両方に、転校生としてマホウ界、ナシマホウ界という未知の世界へ足を踏み入れる役目が割り振られています。
そしてまほプリは、こうして新しい人に触れ、世界を広げていくことを表現すると共に、出会いがあれば別れがあるということを丹念に描いています。早くは第9話、マホウ界からみらいが去ることになってのみらリコの別れに始まり、第21話でドクロクシーを浄化するために天へ消えたはーちゃんとの別れ、第45話では親友であった校長とクシィの決別がわざわざ1話かけて詳細に語られ、第49話ではマホウ界とナシマホウ界の、そしてみらいとリコの別れがありました。最終的にみらいは、第1話以降に出会った全ての人々と魔法に別れを告げ、高校大学と人生を歩んでいきます。最終的には再開するわけですから、脚本上の選択肢としては仲良くずっと暮らしましたという展開もあったはずです。しかしあえて、出会いがあれば別れがあるということを描写する姿勢に、観ていて心を打たれました。
想いを言葉にすることの大切さ
出会いがあれば別れがあるということに関して、まほプリが作品全体を通して大事にしているテーマがあると感じています。それは自分の気持ちを、口に出してはっきりと言うということの大切さです。これは特に、作品後半のみらいの行動において顕著であったと思います。おそらくはーちゃんとの別れを経験し、また親友であった校長とクシィの決別を知ったことで、リコ、ことは、モフルンと一緒に居たいと強く願うようになったからでしょう。第27話で校長に対して「何があっても、どんな事があっても、わたし、みんなと一緒にいるって決めたんです」と宣言したように、彼女はその決意を周りに力強く宣言する場面がしばしば見られました。
またまほプリでは魔法ではない願い事を、魔法を使う形式で唱えるという行為が何度か行われました。第23話ではことはが「キュアップ・ラパパ! 大好きなみらいとリコとモフルンとずっと一緒にいられますように」、みらいが「みんなとずっと仲良しでいたい」と、第49話ではリコが「キュアップ・ラパパ! 私達は必ず、絶対また会える!」と魔法をかけています。これは非常に印象的な場面として描かれていて、第23話では恥ずかしがって参加しなかったリコが第49話で再会の魔法をかけるという対比がとても美しいです。この魔法も、自分の願いを宣言する1つのかたちと見ることができるでしょう。
そして極めつけは、第49話の終盤でしょう。視聴者で覚えていない人はいないでしょうが、改めて振り返りたいと思います。大好きなシーンなので。リコやことはと別れて普通の大学生になっていたみらいは、祖母から「素直な言葉は力になる。想いが繋がっていればそれは、奇跡を起こすのよ」と言われ、その日の夜に魔法の杖に似た枝を拾います。みらいは「キュアップ・ラパパ! もう一度みんなに会いたい!」と唱えますが、当然何も起きず、「なんてね。バカだな、わたし」と帰ろうとします。しかし祖母の言葉を思い出したみらいは再び枝を拾い、涙ながらにまた再会の魔法を唱え、何度も何度も月に向かって枝を振るというシーンです。再会を切望する悲痛な想いを感じさせるみらいの姿に、何度見返しても泣いてしまいます。言葉というものが持つ重さをこれほど感じさせる場面は、今まで自分が観てきたアニメの中でも1番かもしれません。
もちろん他のあらゆる作品においても、決意表明や仲間への呼びかけといった「言葉を声に出す」シーンは大事な場面として描かれます。しかしまほプリでは、それがことさら強調され、作品を象徴する場面に利用されているのではないかと感じました。思えばまほプリに魔法自体、「箒よ、飛びなさい!」というように自分の望む内容を言葉にすることで実現する技術です。私は、心からの願いを込めた言葉が強い力を持っているということも、まほプリが描き出そうとした大きなテーマではないかと思います。
まほプリに初めて触れたのは去年の9月に見たオルFにフェリーチェが登場したのを見たときですが、その後に「みらリコは良い」、「まほプリは実質百合アニメ」などといった評判を耳にしており、観るのがとても楽しみでした。実際、みらリコの間の想い、そしてことはとモフルンも加えた4人の、家族としての強い絆は本当に胸を打たれました。1話の最大瞬間風速という意味ではまほプリ49話に勝る話というのは中々ないんじゃないかと本当に思います。しかしそれもまほプリという作品が丁寧に2人の、また4人の足取りを描いてきた積み重ねがあるからこそ、あれほど感動できるわけです。それを思うと4クールアニメとしての長さは、間違いなくプリキュアの強みであると感じました。
さて今年度は、わんぷり秋映画『わんだふるぷりきゅあ!ざ・むーびー! ドキドキ♡ゲームの世界で大冒険!』へのまほプリメンバー出演、そして冬には続編となる『魔法つかいプリキュア!!〜MIRAI DAYS~』の放送があります。既にわんぷり秋映画の前売り券も購入済みで、今後もまほぷりを楽しみたいと思っています。
まほプリの次は、ハグプリを観ています。こちらも明るく希望を貰える作品で、また感想を書くつもりです。その際はまた、よろしくお願いします。
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