10月13日(水)、午前4時40分。看取った後。
昨日の朝、11時頃、父が息をひきとった。
最後は、夜、頑張った妹が起き出して、父の側で母と話している間のことだった。直前まで、普通に呼吸していたそうで、誰も父が息をひきとる瞬間には立ち会っていない。それくらい日常の安心した空気の中でいけたらしい。
私は、妹が起き出してきた段階で別室で休憩していたので、横になっていると、突然、「お父さん、息してない。」と、母に起こされて、「えっ??」と行くと、既に亡くなっていた、といった感じだった。
その前の晩、薬を入れてもらっていたけれど、とても苦しそうで、「死ぬってこんなに大変なんだ。あと何日か、こんなに苦しそうな父を看るのはやだぁ。私が死ぬときは、病院で、強い薬で眠らせてもらおう。」なんて思っていたので、「お父さん、すごく苦しそうな時が早く済んで良かったねぇ。」と思った。
その日の朝に、あまりにひどい暴言をはかれ、「お父さんに触る手伝いは、もう、私、無理だし。」と、完全に後方支援に回っていたんだけど、夜の悶える父の姿を見て、「戦線離脱してて良かった、私には無理。」と改めて思っていたので、その状態の父を懸命に看護する母と妹の姿を見て、ただただ尊敬していた。
でも、死ぬ直前、珍しく私の名前を呼んで、水を頼まれた。父にとって私は、あまりに役立たずだったので、ほとんど名前なんて呼ばれなかったので、父なりに死ぬ前に仲直りしたかったんだろうな、と、思う。
水では味がないといい、島のレモンを入れると、ちょっとでは味が足りない、足すと今度は、酸っぱすぎてむせ、最後にまた水を足して、やっとちょうどよいレモン加減になって満足する、という、父らしい要求だったんだけど。
昨日は、滑舌が相当悪くなってて、私達が理解できる言葉がほとんどなかった状態だったので、ジェスチャーで理解していたんだけど、最後まで自分の意思は伝えられ、こちらの話も理解できていた。
そんなに娘が怒ってないことを理解して、旅立てたので、良かったんじゃないかな。
カッコつけで、外にはいい顔で、身内には勝手な、ほんとに大変な父だった。
家族や父の兄弟、みーんな、父にたくさん困らされて、好き放題嫌なこと言われて大変だったけど、やることが笑えるので、憎みきれない人。
体を綺麗にするためにやってきてくれた訪問看護師さん達、死亡確認にやってきてくれた先生達とも、ここ数日の父についてたくさん話をした。
先生から病状についてしっかり説明を受けてから、すごい勢いで電話をかけまくっていたこと、その時に自分の病気を百万人に一人から、千万人に一人の病気、と、どんどん話を盛っていっていたことを伝え、大笑いだった。
先生も、「そこまでレアな病気ではないんだけど…。」と苦笑していた。
退院する時に、病院で、検査結果を見ながら説明を受けた妹と母から、「長くて3日くらいかな。」と説明を受けていたので、そこからいくと、びっくりするほど長かった。
亡くなる前々日まで、夜、私達が食べるテーブルに一緒について、ビールを飲んでいたくらい、好きなことをして、いっぱいしゃべっていた。
「こんな患者さんは、あまりみたことがないです。」と、訪問看護師さんに言われるくらい。
タバコにお酒と日常生活を営んで、孫に形見分けして、話したい人に連絡しつくして、と、最後にできる限りのやりたいことをして、私から見て怖くなるくらい苦しそうなのは、昨夜だけで、穏やかな時間に眠るように逝けて、本当に幸せだったんじゃないのかな。
私自身、完全に後方支援に回っていたけど、父にあぁしてあげれば良かったこうしてあげれば良かった、という気持ちも特に起きず、苦しい日が少なくて良かったねぇと、心から思う。
死んでいく父の姿を見て、死ぬってなかなか大変だ、ということを教えてもらった。
また、少しでも心地よく死んでいくために、たくさんの人が関わってくださっていることも知った。
産まれる時、死ぬ時に関わる医療関係の仕事の尊さを実感した。
その現場にいれて良かったなぁと思う。
妹のやる気に巻き込まれた形になって参加した形だけど、巻き込まれることに決めて良かったと思う。
洗濯、買い物、炊事などの後方支援も大事な仕事だし…。
父の世話に関しては、ほんとに、見事なくらい役立たずだったんだけど(笑)。
妹と母が倒れる前に父が逝けて本当に良かった。
死亡届けを役場に持っていったり、通夜の準備をしたり、と、まだ、仕事はたくさん残ってるし、母が生きるための環境をできる限り作ってから帰るために、したいこともあるので、もう少し、実家で頑張るつもり。
父がしたいように生きたように、母にも残りの人生、「大変なこともたくさんあったけど、楽しかったわ。」と思ってもらえるといいなぁと思う。
眠れなかったのに、妹と交替する時間に目覚めたことで、このブログが書けた。
では、今日がいい日になるように楽しも😊