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出来事から発せられる複数の波ーアレクサンドル・エトキント「ハードとソフト」を読んでみた

ここのところロシア関連文献を読んでいますが、今回はロシア文化史家アレクサンドル・エトキントの「ハードとソフト」(平松潤奈訳 『ゲンロン7』
2017年 収録)を読んでみたいと思います。これは大量虐殺の記憶についての論考です。世界的に健忘症が進んでいる今、たいへんアクチュアルな議論になっているのではないかと思います。


ハードとソフト

文化には、コンピューターのハードウェアとソフトウェアにたとえることが可能な二つの記憶形式がある。ソフトな記憶はもっぱらテキストからなる(文学的ナラティブや歴史的ナラティブ、その他いろいろなナラティブがあろう)。他方、ハードな記憶は主として記念碑からなる。もちろん、ソフトとハードは相互依存関係にある。碑文なき記念碑は沈黙するし、記念碑なきテキストの命ははかない。

『ゲンロン7』 164P

そもそもテキストがそれ自体ハードとソフトの相互依存関係でできています。目にみえるイメージとしての文字と目にみえない意味によって成立しています。話し言葉にしても、皮膚感覚として感じられる音波と意味によって成立しています。

時間

そして時間も重要な要素です。

現代の記憶は、空間と場にまだ依拠しつつも、時間によって構造化されている。その時間的単位は、記憶の出来事だ。これを私は、確立された文化的意味との断裂を引き起こす過去再訪の行為だと定義しよう。記憶の出来事はふつう、ある歴史的出来事の何年か後、あるいは何十年か後に起こるものであり、解釈対象たる歴史的出来事に対して二次的な存在である。

『ゲンロン7』 165P

時間によってかわるものとかわらないもののセットで記憶はある。記憶対象の出来事は一回しか起きていないけれど、それを何度も呼び戻すことが記憶の目的なのだと思います。そして何度も呼び戻すことによって出来事の解釈が変化します。

解釈の変化

あるホロコースト生還者の作家の言葉が引用されます。

もし収容所からの解放直後に、自身が閉じ込められていたその収容所をどうしてほしいかと問われたならば、「ナチスとドイツ人もろとも完全に破壊してくれ」と言ったかもしれないが、40年後には、その地に「警告の碑」があったらよいと思うようになったと書いている。

『ゲンロン7』 164P

当事者の感情は尊重されるべきなのだけれど、問題は数十年後に、その当事者がどのように考えるのか本人にもわからないということです。そして子孫に記憶を引き継ぎたいと思った時には、その痕跡は消えてしまっている。東日本大震災のときに思ったのは、出来事が起きてから議論をはじめても遅いのではないかということでした。被害者はそりゃ忘れたくなるでしょう。でも数十年後には、痕跡を保存したいと思うことがありえるのであれば、出来事が起きる前に、当事者になるかもしれない人たちで、痕跡を保存するかどうかを決めておくしかないのではないかと思います。

この時間が経過すると解釈が変わる問題、かつては人間の処理の問題だと思っていたのですが、最近は、半分は人間の問題だけれど、半分は出来事の問題なのではないかと思うようになりました。地震のP波とS波のように、出来事から複数の波が発せられて、それぞれ人間に到達する速度が異なるのではないか。もしそうならこの働きに抵抗することは難しいから、この傾向をふまえて、どうするか決めておくしかない。まずは記憶から抹消したくなる波が人間に到達し、数十年後に記憶を残したくなる波が到達する。これをよく理解した上で対処のしかたを決めておいてはどうでしょうか。

コミュニティ

記憶の出来事が力をもつかどうかは、まずその真理要求にかかっている。それはつまり、コミュニティが、記憶の出来事を過去に関する正しい記述と認めるかどうかということである。次に記憶の出来事の力は、独創性要求にかかってもいる。それは、コミュニティが、記憶の出来事を定説とは異なる新しい過去解釈として認めるかどうかという問題である。そして最後に、アイデンティティ要求を挙げることができる。これは、コミュニティが、変更された過去解釈を自らのアイデンティティにとって本質的なものと認めるかどうかの問題だ。

『ゲンロン7』 165-166P

記憶に力が宿るのも、記憶の変更が可能になるのも、コミュニティによる合意が前提になるようです。合意するためにはハードが必須になるのではないでしょうか。ハードがあれば、同じものを見たり、聞いたりしているという共感が生まれやすいと思いますが、ソフトの場合は同じものを感じているという感覚は生まれにくいのではないでしょうか。共感発生装置としてのハードを保存するかどうかについても、出来事が起きる前に決めておきたいところです。

博物館と記念碑

ハードとソフトの関係が博物館と記念碑の関係を使って検討されます。

大量テロル跡地のメモリアルは通常、博物館と記念碑の二つの部分からなる。博物館は物語り、出来事の物質的痕跡を展示する。…他方、記念碑は、歴史博物館とは対照的に、理性的基準によって判断されるべきものではない。記念碑は感情的反応を呼びおこすものであり、儀式に近い。博物館が歴史的知を体現するのに対し、記念碑は芸術作品であり、真理要求をしない。

『ゲンロン7』 169-170P

出来事の痕跡の保存は博物館のミッションです。こちらには物質的痕跡(ハード)の保存とその解釈(ソフト)が必要になります。いっぽう記念碑にもコミュニティのコンセンサスのために物質(ハード)が必要ですが、痕跡である必要はありません。コミュニティがある程度合意できる象徴(ソフト)が宿っていれば良い。コミュニティは理性寄りのハードとソフト、感性寄りのハードとソフトを必要としているようです。出来事から発せられる複数の波を表現しているかのようです。

犠牲者になれない被害者

記憶対象の人間には被害者と犠牲者がいます。

ありふれた状況下での暴力的な死や早すぎる死に際してよくあることだが、被害者、そしてその仲間や遺族はなおさら、自分たちの受難の意味を探し求めようとする。もし意味が見つかったならば、死は単なる死亡や殺人ではなく犠牲となる。

『ゲンロン7』 171P

革命を成し遂げるなどすれば犠牲者になることが可能だけれど、自然災害や交通事故で死んでも犠牲者にはなれないでしょう。だからほとんどは被害者にあたるのだと思います。そして時間が経ってから意味を見出すことができれば、犠牲者に変化する。でも見つけることができなければどうするのか。後世に期待するしかないでしょう。その意味でも
子孫が見つけられるよう、とにかく被害の痕跡を保存したほうがいい。

テクストと記念碑

最後にハードとソフトが再考されます。

テクストと記念碑は、文化的記憶の媒体として、それぞれ公共圏への関わりかたが異なる。民主的社会において公共圏は、包括性や言論の自由や競争といった理念の実現に邁進する。これとまったく同じことが過去を語るテキストについても言えるが、記念碑についてはそうはいかない。ハーバーマス的な公共圏とはテクストの領野である。だが公共の記念碑は公共圏の規則にしたがわず、その外部にとどまる。記念碑はモノローグ的だ。…記念碑は論争や競争をしない。一つの歴史的主題をめぐって二つの異なる意見があることは至当だが、一つの地点に二つの記念碑を建てることはできない。過去にまつわる知的討論は複数的だが、記念碑は単独的である。

『ゲンロン7』 179-180P

複数的な解釈をするためには単数の、それゆえ、かわらない物理的身体が必要です。この構造は、テクストと記念碑、意味と文字、精神と身体のように人間の本質なのだと思います。複数的なものと単数的なものが重なっているからこそ概念のようなものが生まれるのではないでしょうか。

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