出来事から発せられる複数の波ーアレクサンドル・エトキント「ハードとソフト」を読んでみた
ここのところロシア関連文献を読んでいますが、今回はロシア文化史家アレクサンドル・エトキントの「ハードとソフト」(平松潤奈訳 『ゲンロン7』
2017年 収録)を読んでみたいと思います。これは大量虐殺の記憶についての論考です。世界的に健忘症が進んでいる今、たいへんアクチュアルな議論になっているのではないかと思います。
ハードとソフト
そもそもテキストがそれ自体ハードとソフトの相互依存関係でできています。目にみえるイメージとしての文字と目にみえない意味によって成立しています。話し言葉にしても、皮膚感覚として感じられる音波と意味によって成立しています。
時間
そして時間も重要な要素です。
時間によってかわるものとかわらないもののセットで記憶はある。記憶対象の出来事は一回しか起きていないけれど、それを何度も呼び戻すことが記憶の目的なのだと思います。そして何度も呼び戻すことによって出来事の解釈が変化します。
解釈の変化
あるホロコースト生還者の作家の言葉が引用されます。
当事者の感情は尊重されるべきなのだけれど、問題は数十年後に、その当事者がどのように考えるのか本人にもわからないということです。そして子孫に記憶を引き継ぎたいと思った時には、その痕跡は消えてしまっている。東日本大震災のときに思ったのは、出来事が起きてから議論をはじめても遅いのではないかということでした。被害者はそりゃ忘れたくなるでしょう。でも数十年後には、痕跡を保存したいと思うことがありえるのであれば、出来事が起きる前に、当事者になるかもしれない人たちで、痕跡を保存するかどうかを決めておくしかないのではないかと思います。
この時間が経過すると解釈が変わる問題、かつては人間の処理の問題だと思っていたのですが、最近は、半分は人間の問題だけれど、半分は出来事の問題なのではないかと思うようになりました。地震のP波とS波のように、出来事から複数の波が発せられて、それぞれ人間に到達する速度が異なるのではないか。もしそうならこの働きに抵抗することは難しいから、この傾向をふまえて、どうするか決めておくしかない。まずは記憶から抹消したくなる波が人間に到達し、数十年後に記憶を残したくなる波が到達する。これをよく理解した上で対処のしかたを決めておいてはどうでしょうか。
コミュニティ
記憶に力が宿るのも、記憶の変更が可能になるのも、コミュニティによる合意が前提になるようです。合意するためにはハードが必須になるのではないでしょうか。ハードがあれば、同じものを見たり、聞いたりしているという共感が生まれやすいと思いますが、ソフトの場合は同じものを感じているという感覚は生まれにくいのではないでしょうか。共感発生装置としてのハードを保存するかどうかについても、出来事が起きる前に決めておきたいところです。
博物館と記念碑
ハードとソフトの関係が博物館と記念碑の関係を使って検討されます。
出来事の痕跡の保存は博物館のミッションです。こちらには物質的痕跡(ハード)の保存とその解釈(ソフト)が必要になります。いっぽう記念碑にもコミュニティのコンセンサスのために物質(ハード)が必要ですが、痕跡である必要はありません。コミュニティがある程度合意できる象徴(ソフト)が宿っていれば良い。コミュニティは理性寄りのハードとソフト、感性寄りのハードとソフトを必要としているようです。出来事から発せられる複数の波を表現しているかのようです。
犠牲者になれない被害者
記憶対象の人間には被害者と犠牲者がいます。
革命を成し遂げるなどすれば犠牲者になることが可能だけれど、自然災害や交通事故で死んでも犠牲者にはなれないでしょう。だからほとんどは被害者にあたるのだと思います。そして時間が経ってから意味を見出すことができれば、犠牲者に変化する。でも見つけることができなければどうするのか。後世に期待するしかないでしょう。その意味でも
子孫が見つけられるよう、とにかく被害の痕跡を保存したほうがいい。
テクストと記念碑
最後にハードとソフトが再考されます。
複数的な解釈をするためには単数の、それゆえ、かわらない物理的身体が必要です。この構造は、テクストと記念碑、意味と文字、精神と身体のように人間の本質なのだと思います。複数的なものと単数的なものが重なっているからこそ概念のようなものが生まれるのではないでしょうか。