第十一章 暗示とはどんな事か(1)
さて、この道の修得上
「暗示」ということを知っておく必要があるから
それについて概略を説明しておく。
抑も暗示とは
非常に広い意義をもっているものであるが
ここでは、この道の修得上に
必要なる範囲において
これを説明することとする。
暗示とは、
明らかに言わずそれを悟らせること
=ほのめかしてその内容を悟らせること
である。
更に一歩を進めて説明すれば
「暗示とは」、
外部より受けたる諸種の感覚や
または内部におこりたる諸種の感覚に対し、
ある観念が作用して
心身に変化を起こした場合、
この最初の
「感覚を起こさせたもの」を
暗示と申すのである。
例えば、
ある少年が朝食のときに、
大根おろしが好きでたくさん食べるので、
親たちが
「大根おろしをたくさん食べると毒になる。
お前はきっとお腹が痛くなる」と言った。
この親の言葉を受けた少年は
「腹が痛くなるであろう」という想像を起こし、
この想像が
「腹を痛くする観念」
を作った。
この少年は
朝食がすんでまもなく、学校に行った。
授業中腹痛を起こして泣き出した。
兼ねてつくった
「腹を痛くする観念」が
心身に作用して
その観念通りに
心身に変化を起こしたのである。
この場合には
「親の言葉=お前がきっと腹が痛くなる、が暗示となった」
というのである。
このように外部から受けた暗示を
「外部暗示」
と申すのである。
苦しんでいる少年に向かって
担任の先生が
「お前は今朝、何を食べたか?」
と質した。
少年は大根おろしをたくさん食べて、
父母に「腹が痛くなるぞ」と言われた旨を答えた。
すると先生は
「大根おろしは非常に消化を助けるもので、
決して毒になるどころか、
薬になるものだ、
故に腹の痛いなぞは
大根おろしを食べれば治ってしまうものだ。
お前の腹痛も大根おろしのせいではない、
今朝食べた大根おろしが
その痛んでいるところにいけばすぐ治る!
もう大根おろしが
その傷んでいるところに行く時分だから
まもなく治る」
と教えた。
少年は
「先生が言った通り治るに違いない」
と想像し、
ここに「治る観念」が生じ、
この観念が心身に作用して
その腹痛は根治してしまったのである。
この場合は先生の言葉が暗示となった、
というのである。
または先生が
「治る暗示を与えた」
というのである。
第二例
悪くなった魚肉等を
知らずに食べてこれを吐くと、
その後は悪くなっていない魚肉でも、
これを食べる毎に吐く癖の者がいる。
これは
前の吐いた経験が
吐くべき想像観念を起こし、
この観念が
心身に作用するから吐くのである
(魚肉に限らず食物にはこれに似た実例はよくあるのである)。
このように、
自身で起こした観念、
または自身に潜んでいた観念が作用して
心身に変化を起こした場合、これを
「自己暗示」
または
「内部暗示」
というのである。
世界で有名なドイツのコッポという医学博士が
コレラ菌を発見して、
「この微菌でコレラ病が伝染するのである」、
と主張した当時、
ミュンヘン大学の教授の
ベッテンコーフェル氏とその助手のニンメリッヒ氏は
この説に反対の主張をした。
たまたま医師会の会場で
「コレラ菌を飲んで」
実験してみせたが、
んらの害も受けなかった。
勿論、
大医家の集合の席上における実験であるから、
誤魔化しを行ったことでないことは、
何人にも想像できる事である。
これは、
「こんなコレラ菌などに冒されるのではない」
という絶対の観念が
心身に作用して、
全身の生理機能が猛烈に作用したから、
コレラ菌を体内に入れても
害を受けなかったのである。
こういう現象を
「自己暗示作用のためにコレラ菌に冒されなかった」
というのである。
これはコレラ菌を飲んだ実例であるが、
赤痢菌でもチフス菌でも結核菌でも
その他の病菌でも、これを同理で、
偉大なる自己暗示を持って対抗すれば
これに打ち勝ち、
あるいはこれを撃滅することができるのである。
大正十四年十二月十九日の東京日日新聞に次の記事があった。
ドイツの学者を煙に巻くインドの僧侶
インドヨギ教の一僧侶は
ドイツプレスラウ大学の学者達を前に
灼熱溶解している鉛を舌の上に流し、
それが舌の上で凝結してもなお少しの苦痛も感ぜず、
また火傷もせず、並びいる学者達を驚かした。
ヨギ僧は
自己暗示の力が
苦悩や負傷を打ち負かすためであるといって、
学者達は何らまやかしらしいものを
発見することはできなかった。
これも説明を加えるまでもなく
「なあに、このくらいのものに恐れるものか!」
という絶対の観念が
自己暗示作用となってならしめたのである。
ドイツのウイロウルユリ氏は
3千ボルトの電流の通じている電線を切断して
その一端を素手で握って
何らの害をも受けなかったとのことである。
これも
その電流に絶対に恐れぬ観念が
自己暗示作用となってならしめたのである。
天文群という志那の忠臣が
毒を飲まされたときに
「なあに、俺は毒などに恐れるものか」
と威張っていて
なにの害も受けなかったということである。
また加藤清正も毒饅頭を食わされた時、
それと感づいた清正は
「毒ならばいくらでも食って見せるぞ」
と頑張って承知でその毒饅頭を食べたが、
見事にその毒に打ち勝って
何らの害も受けなかったということである。
これらは、皆
自己暗示作用による結果である。
つまり
「俺はそんな毒等では何でもないぞ」
という絶対の観念が心身に作用して
生理的機能が猛烈に作用したから
その毒害物を打ち負かして、
結局その概念通りの結果となったのである。
以上の各例で
暗示作用は実に偉大な力を以て
心身を支配するものであることが
わかったであろう。
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