第八章 信仰と崇拝
すでに述べたとおり、
我々の祖先の霊は
宇宙の大精神と合しているのである。
そして我々の第三精神と融合一体となって
間断なく我々を守護してくれているのである。
このありがたき祖先の恩に
報いねばならぬ。
このありがたき祖先をば
大いに崇拝せねば
ならぬのである。
仰々祖先崇拝
(自分の家の先祖のみではなく、
我々の全ての祖先
すなわち敬神をも含む)
の念なきものは
人間ではないのである。
全ての人の道は
祖先崇拝心が
その源泉である。
故に非人道の行為を為すものや
非国民的の人物は
皆祖先崇拝心などは無いものである。
祖先崇拝、
これ瞬時も忘れてはならぬ事である。
故に祖先を祀りたる
神社や仏閣の前にいきたるときは
心からの礼拝をすべきである。
しかしこれに対して
種々の依頼事等をすべきものではない。
崇拝を誤りて、
誤りたる信仰に陥ってはならぬ、
迷信に陥ってはならぬのである。
会長が
某県知事からこういう話を聞いた。
「私が以前いた●●県は非常に仏教の盛んな所です。
そのせいか殺人事件のような
乱暴な事件はめったに起こらないが、
窃盗事件は非常に多いのです。
それで盗んだ金で仏壇を買って
朝晩熱心にこれを
信仰しているものもありました。
また窃盗を捕まえて調べてみると
「仏壇を買い求めたくて、
その金が無いので窃盗をした」
という者が相当にあります。
つまり仏壇を求めたくて、
ドロボーをするのです。
それでそれやの輩は窃盗する時
「南無阿弥陀仏」
を念じながらやるというのです。
彼らの心理は
南無阿弥陀仏を唱えれば
仏様の御加護で
人に知られないようにドロボーができる
と信じていたり、
また仏壇を作って
これに仏様を祀ってやれば
これまた仏様がドロボーの罪は許してくれる、
と信じているらしいのです。」
これは
大いに味わうべき事である。
これらは祖先崇拝を誤って、
誤った信仰に陥り
そして祖先に大迷惑を
させているものである。
これもある人から聞いた事だが、
ある神信者が窃盗して
たちまち警官の縄にかかった。
残った妻子は
心を合わせて無罪になるようにと
神に供物をあげて祈った、
また一方ではある行者に大金をやって
無罪になるように
祈祷してもらったとの事である。
これらに類似したことは
各地にざらにある事であるが、
これ皆誤りたる信仰が産む滑稽激である。
要するに
自己を守護する神や仏が
自己に存することを悟らぬ者は
神や仏は
祀ってあるところにのみいるもの
と誤信している。
したがって
神社や神棚の前や仏壇の前や、
あるいは教会の中にいる時だけは
神心にもなりまた、仏心にもなるが、
その場を離れると
上の如く
人を誤魔化したり窃盗したりするものが
少なくないのである。
そして、日頃信仰している神仏に祈願すれば
その悪事も
人にわからなくしてくれる
と思っているのである。
またあるいは、
神仏を囮にして人をくったり、
社会を毒したりしていりる者に
欺瞞されている者も
たくさんいるのである。
これ皆、他力信仰の迷信劇である。
我々は万物の霊長ではないか。
万物の霊長が他力に頼るような腰抜けではならぬ。
万物の霊長なる自己を信じ、この自己に頼れ。
即ち、己を信仰すべきである。
要するに信仰すべきは自己を守護する自己の神である。即ち自己である。
祖先は崇拝すべきである。
敬神崇祖を誤って迷信に陥らぬようにせねばならぬのである。
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