I am の文化の終焉
中学校で英語を初めてならったとき、
先生が
「日本語は主語が無い、ハッキリしていない。
英語は”I am"と自分が話すことがハッキリしている」
と説明してくれました。
確かに、主語がない会話をしているな、
とその時は納得していました。
そして、ウン十年たった今、
この「I am」という言葉、別の意味を持って
理解できるようになりました。
西欧の物質文明は、自我の文明。
I am
に代表されるように
「俺が」「私が」
と、まず自分を前に出し、主張することで成り立ってきました。
それに対して、私達の日本の精神文明は
自我を下げ、相手をたたえようとします。
主語が曖昧なのは、自我を主張しすぎない
という気持ちの現れです。
今、世界の文明は岐路にたたされています。
産業革命から始まった西欧の物質文明が行き詰まり、
精神文明に移行しようとする岐路です。
コロナ前、
多くの西欧人が、悟りや無我を求めて
来日していました。
この流れが、コロナで止まり、
さらに世界情勢の乱れで停滞しています。
多くの人々が、これからの世界をリードするのは
日本文化である、
と言っているように、
私達は、いま一度自分たちの文化を見直さないといけません。
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