大宇宙の精神(8)
長らく病気の某婦人が
ある口寄せ(※生者または死者の霊や神霊を呼び寄せ、
その意思を言葉で語ること。イタコなど)
に見てもらったのである。
口寄せはお経だか呪文だかを唱える。
すると神憑依状態になる、
しかしこの時は神が憑依したのではなく
その婦人の近所の子供の
所謂「死靈」
が憑依したのである。
口寄せ(子供の死靈)曰く
「ああ、俺ばかりつまらない。
友達は皆大きくなって
よい着物を着て、
うまいものを食べて楽しんでいるのに
死んだ俺ばかりつまらない」
婦人「いったいあなたは誰ですか?」
口寄せ「俺は新太郎
(この婦人の子供の友達で2年前に死んだ)です。
あんまりつまらないから、
俺はおばさん(婦人)に
祟って悩ましてやっているんだ」
婦人「お前さんは
私には何の恨みもないハズですが、
どうして私に祟って
こんなに私を悩ませてくれるのですか?」
新太郎(口寄せ)「祟ってやろうと思う者は
皆頑固でおっかないから、
別に恨みはないけど
おばさんに祟っているんだよ」
婦人「ずいぶんひどいね。
何の罪もない恨みもない私に祟って
こんなに悩ませて
一体どうしたら
私の病気を治してくれるんですか?」
口寄せ(新太郎)「よい石を建てて供養をして
一週間続けて線香を立ててくれれば
おばさんの病気を治してやる」
この婦人は
新太郎氏の家とは親戚でもなんでもない
赤の他人であるが
早速その故新太郎の墓所に石碑を建て、
供養をして
線香を1周間立て続けてやったのであるが、
婦人の病は益々悪化して
遂には死んでしまったのである。
この口寄せの精神を解剖してみると
まず、口寄せがお経だか呪文だかを唱えると
第一精神が鎮静する
これに第三精神が融合する
すなわち過去の事等が
感応しやすい心理状態になる
そこにこの婦人がいたのだから、
その婦人の子の友達が死んだことが
感応したのである。
これは第三精神の作用であるが、
これに続いて彼の言ったことは
彼の妄念幻想が
内意識の活動によって放言されたもので
取るに足らぬことなのである。
本物の仏様が
このように人を悩ませたり、
供養をしてくれ、
石を建ててくれなんのと
種々の要求はしないはずである。
論より証拠に、こ
の婦人は新太郎(口寄せ)の言う通り実行しても
病は治るどころか、
かえって悪化して死んでしまったのである。
神憑依、口寄せ、イチコの類、其他加持祈祷等の心理状態は
皆以上のごときものである。
決して神や佛が乗り移るのではない。
故に山畑式法術を応用して
外意識を奪って
「お前は神だ」と暗示すれば
神憑依と同一の状態になる。
また、「お前は新太郎(死んだ子供)」
と暗示すれば
表情や態度や言語までが
全く新太郎と同様になる。
そして生きていた当時の事や
また死後の事を語ったりするので
親兄弟等がこれを見れば
まったく泣かされてしまうのである。
なおまた、
「お前は狐だ」と暗示すれば
表情や言動が一変して
あたかも狐のような真似をする、
すなわち狐憑きと同様になるのである。
これに反して
神憑病者や狐憑き病者を
完全なる精神状態にする事もできるのである。
なおまた山畑式法術の応用によれば
外意識も内意識も止めてしまって種々の判断をすれば
妄念幻想は起こらないから
正しき判断や預言ができるのである。
すなわち千里眼や透視術がこれである。
ある38歳の男が神信心に夢中になって、
神憑り狂になった。
在る行者に見てもらったところが
「狐が憑いたのだ」
といって一週間も唐辛子を燻したが
狐は去らなかった。
会長が頼まれて行ってみると
狐ではなく、神憑り狂者であった。
そのとき、唐辛子を燻した行者もいたし、
近所親戚の人々や警察官も居たのであるが、
これいかに大騒ぎを演じていたかが想像されるのである。
会長はこの神憑り狂者に向かって、
「あなたは誰ですか?」と問うた所、
彼は「われこそは日蓮じゃ」と答えた。
そこで会長はまず一喝を与えて
彼の「我は日蓮である」という概念を除去して
「普通人である」という概念を入れてやった。
さすがの日蓮様(観念)も
彼の身体より去って
彼も全くの普通人格にかえってしまった。
居合わせた人々は
不思議そうな目をしてみていた。
例の行者も只々あっけに取られてしまっていた。
この実例によってみても、
日蓮様やその他の神が憑依するということは
ないものであることがわかるのである。
つまり「我は日蓮なり」とかまた
「我は天理王なり」
とかいう概念に支配されている
内意識の活動に基づく現象であるのである。
狐憑き病やその他一般に
憑き物がしたという病人は皆、
この神憑り狂と同一原理に基づく
変態精神現象である。
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