イブ・サンローラン
現在、国立新美術館にてイブサンローラン展が開催されています。この展覧会は、彼の没後日本で初めて開催される回顧展だそうです。彼の生涯に関心を持ったので、簡単にまとめてみました。
イブ・サンローランは1936年8月1日に北アフリカにあるアルジェリアのオランで生まれました。彼は地中海沿いのヴィラで、2人の妹ミシェルとブリジットと共に育ちました。複雑なデザインの紙人形を作るのが好きで、10代初めには、彼の母親や妹たちのために、ドレスをデザインしていました。
18歳でパリに移り、シャンブル・シンディカル・ドゥ・ラ・オート・クチュールに入学し、19歳でディオールのメゾンに入社して研鑽。1957年8月、21歳の時にクリスチャン・ディオールに才能を認められ、彼はディオールの後継者に抜擢されました。同年10月、ディオールがイタリア保養地で心臓発作で急逝した後、彼はディオールのヘッドデザイナーになりました。1958年春のコレクションである「トラぺラーズ (台形)・ライン」と呼ばれるシンプルで広がるラインは、一躍、彼を国際的なスターダムに押し上げました (図1、3)。
サンローランは1960年に徴兵され、部隊内のいじめによるストレスが原因で精神を病んだため、病院に入院、ディオールから解雇されました。更に、入院中に大量の鎮静剤投与と電気ショック療法を受けました。
1961年に病院を退院した後、サンローランはピエール・ベルジェの強力なバックアップのもとに独立し、イブ・サンローラン (YSL) を設立。パリマルソー通り5番地に自分のメゾンを設立しました。ベルジェは公私ともにサンローランを支え、彼の天才的な才能がベルジェによって大きく花開きました。彼らの関係は、当時としては珍しい公然の同性愛関係であり、ファッション業界だけでなく、社会全体にも大きな影響を与えました (図2)。パートナーであるベルジェとの強い絆により、サンローランは世界的なファッションデザイナーになる事ができたのです。
それまで富裕層向けのオートクチュール (Haute couture、高級仕立て服)が主流であった業界に、1966年に、サンローランは一般庶民でも着用可能なプレタポルテ (Prêt-à-porter、既製服)を導入するため、世界初の既製服ブティックをオープンしました。さらに、彼はレディースファッションにおける数々の革新的なデザインで知られるようになりました。女性のためのタキシードスーツである「ル・スモーキング」やアートとファッションを融合させた服 (オリジナルはモンドリアン・コレクション) をデザインしました (図4、5)。特に、ル・スモーキングは男性的要素と女性的要素の融合を表現し、ファッション界に革命を起こしました。一方では、積極的にナオミ・キャンベルなどの有色人種の女性モデルを多数起用することで、多様性への支持を表明しました (図6)。
2人はモロッコのマラケシュに魅了され、1980年に、現地でマジョレル庭園(Jardin Majorelle)を購入し、大幅に手を加えました (図7) 。この庭園は、フランスの画家ジャック・マジョレルが1920年に入手し、デザインした庭園です。また、この庭園の敷地内には彼らの別荘 (ヴィラ・オアシス) があり、サンローランは精神的に落ち込んだ際は、この別荘で多くの時間を過ごしました (図8、9、10) 。
2007年にサンローランはニコラ・サルコジフランス大統領からレジオン・ド・ヌール勲章グランドオフィシエの位を授与されました。2008年6月1日に71歳の時、パリの自宅で、脳の悪性腫瘍のため亡くなりました。没後に、ベルジェは彼の遺志を継ぎ、彼の遺産と彼らの共通の趣味を維持するための財団を設立しました。2人の業績は、ファッション業界だけでなく、文化、芸術、LGBTQの権利の進歩にも寄与しています。
①ピエール・ベルジェ著「イブ・サンローランへの手紙」、②VOGUE JAPANホームページ、③イブ・サンローランアメリカ版Wikipedia、④ドキュメンタリー映画「イブ・サンローラン」(2010年) などを参考にしました。また、画像を一部引用させていただきました。
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