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ええかっこしい、こっぱみじん。

なんで今日に限ってこうやねん…。

本気で悔しくて、正直ちょっと凹んだ。

わたしの人生あるあるなのだが、鼻息荒く楽しみにしていたことに限って、ぼきん、と足を折られるように出鼻をくじかれたりする。

前回に続き、今回も子どもの病院の検査が入って、楽しみにしていた理系ライターでもあり、小説家の寒竹泉美先生のエッセイ講座は、アーカイブで見ることになった。

直接参加したかったなあ、ほんと。
(つぶやかずにはいられないぐらい、ほんと残念な気持ち。)

講座までに寒竹先生のアドバイスを参考にエッセイを提出する、という課題が出た。

講師のえずさんを含め、受講生提出したエッセイが寒竹先生の赤字が入った原稿が返ってきて、講座当日はエッセイのフィードバックをするという内容だった。

わたしのエッセイはといえば、想像はしていたが、いや、想像以上の真っ赤っかの原稿だった。

自分の原稿に赤字を入れられるという感情は、わたしが毎週通っている整体みたいだった。

的確に急所を突かれて、矯正するのだが、ゾンビみたいな声が出るほど、めちゃくちゃ痛い。

わたしは、自分の添削をしてくれる寒竹先生のアーカイブを見ながら、自分のええかっこしいがバレた恥ずかしさと、感情がうまく書けなかった悔しさで、ゾンビみたいな声が出そうになった。

でもいいところをチラリとでも言ってもらえると、気分は一瞬で爽快になり、もう、その一言を額に入れて飾りたいくらいの衝動に駆られる。
添削はわたしにとって「イタ気持ちいい」整体みたいな時間だった。

いやでも、思った以上の激痛と、またやっちまったな感は凄まじかったけれど。

寒竹先生は理系ライターだけあって、ものすごく鋭い視点だった。

わたしが文章力のなさをゆるゆるとごまかしていた部分を的確に指摘し、原稿を出す寸前に思いつきで書き加えた部分も、瞬時に違和感として、見抜かれていた。

「最後はなんかええこと書かな〜」とええかっこしい根性がふと頭を出し、最後は優等生みたいな、妙にキレイな文章にして書き終えたことも、寒竹先生は、優しい微笑みを浮かべたまま、繊細な可愛らしい声で「これがあることで、どこにでもある文章になる」とバッサリぶった斬った。(斬りっぷりがもう日本刀を持つ武士)

もう言い訳できることはもう何もない。

言い訳さえも、おこがましい気がする。

見透かされすぎまくっている。

寒竹先生の言葉が、わたしの心に強烈に刺さった言葉がある。

「エッセイはブログではない、作品」

もう書ききれないほどに大切なことを教えていただいたが、この言葉が一番刺さった。

絶対忘れてはいけないマインドだな、と思った。

というのも、わたしは自分の書きたいことだけ書き綴る、ブログを書くような気持ちで、エッセイに向かい合っていたのだ。

エッセイって、実はものすごく奥深く難しいのでは!?

何気ない日常を書いてるだけなのに、その世界に思わず引き込まれていく。

書き手のことを知らない人が、自分の何気ない日常の世界を楽しんでくれる文章を書くって、めちゃくちゃ高度な技術じゃない?

そして、エッセイは自分の中にあるものを書くものだから、どれだけ知らない人に自分をさらけ出せるか。

つい、隠しちゃう、ごまかしちゃう。

すぐええかっこしいが文章に出る。
誰も望んでないのに。
キレイに締めて、なんかええ風に見られたい欲望が、必ず後半戦に襲ってくる。

誰も、誰かがうまくいった話や、成功した話なんて読みたくないのに。

エッセイとは、いかに人には見せたくないような内面をさらけ出して、カッコ悪くて等身大で、あがいてもがいて、それでも生きている姿をさらりと書けて、人は初めて共感してくれるものなのかもしれない、と思った。

こんなに深いエッセイ、ほんまに難しかったけど、でもすっごくおもしろかった!
書きながら、ずっとワクワクしてた。

あとは語彙力と文章力だけだな…(一番大事)

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