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Day582 吉田松陰先生に学ぶ

2025/2/23 Sun
本日、天皇誕生日(65歳)おめでとうございます。

また、
本日2・23  ふ・じ・さん
ということで『富士山の日』だとか

いろいろと日が重なりますね。

今日は、大阪のオカン宅(実家)に来ております。

年始に来れなかったので
今年一発目の帰省でございます。
(少々親不孝者)

そんな今日のネタは、
最近読了し終えた
新篇吉田松陰 奈良本辰也著 から
アウトプットさせていただきます。

年末に幕末偉人の書籍を読み
歴史上の人物に興味をもったボク

□吉田松陰
□高杉晋作
□坂本龍馬

が気になる人物です。
そのあとは、芋づるで学んでいこうと思っておりますが

その一発目が
松下村塾の吉田松陰先生。
その生き方が知りたくて
その思想を学びたくて
ボクは一冊手に取りました。

著者の奈良本辰也氏は
見識が深く
実に多く執筆されています

どれが読みやすいのか
わからない中で
“とりあえず“手に取りました。

読んでみて

詳しく言えないのですが
学びになりました。

ザクっと言うと

武士の家に生まれながら
生活は裕福ではなかったため
農業もしていたとのこと

親戚の家で不幸があり、
跡取りがいなくなったため
松陰先生がその役目を受けることになったという流れです。

6歳から教育を受け
(相当厳しいスパルタだったようです)
19歳ではもうかなりのレベル
教鞭を取るまでになっていたと言うから驚きです。

そんな中、
浦賀にペリーが来航したことと
尊王攘夷の考えがあったこと?
(このあたりの解釈がまだ適当ですいません)
(詳しい方がおられたら教えてください)

鎖国中の日本を脱出して
海外への留学を決意します。

決死の覚悟での行動も
失敗。
自ら罪を償おうと僻地で罪を償います。

夏は湿度ムンムン。
冬は隙間風ゴウゴウ。
劣悪な環境の中、
松陰先生は腐ることなく
読書していたといいますから
恐るべしです。

罪人と過ごす中で
「罪人にも社会でたら役に立ちたいと思うはず」
との思いになり

そこで学びの場を設けたそうです。
それが松下村塾の始まり?

ではないのですが
その礎はこの時にできたと知りました。

学がある松陰先生。
獄人たちを上から教えることはなかったそうです。
獄人たちから学ぶ姿勢で向き合ったというから驚きです。

歌を読むところから学びを始め
徐々に学びが広がっていったと知りました。

その後、国に戻り
幽閉の身であるとき、以前からあった塾の手伝いを
始めた松陰先生。

そうなんです。
実は、これが松下村塾だったということです。
松下村塾は吉田松陰が作ったのではなく
元々、寺小屋としてあった
松下村塾を松陰先生が引き継いだという流れなんだそうです。

その中で、
松陰先生は門を叩いた若者のに言います。

「私は教えることはない ともに学ぼう」と。

シビレル!

約2年半という短い間の松下村塾でしたが
□久保玄瑞
□高杉晋作
□伊藤博文 など
明治維新に関わる人物を輩出していったのです。

そして、自身は
安政の大獄で幕府に捕えられ
1859年に処刑され享年30歳で一生を終えました。

辞世の句
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも
留め置かまし 大和魂」

たとえこの身が武蔵(江戸)の地で朽ち果てようとも
私の精神(大和魂)は人々の心に残るだろう

と詠んだ松陰先生。

あなたの生きた証は
160年以上だった今でも
こうやって鮮明に受け継がれているのです。

教育に携わる者として
“教育の原点“
『共に学ぶ』姿勢を学ばせていただきました。

【教訓】
トモニマナブ

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