先住民族から考える「おもちゃのような宝によって成立している格差社会」と「現代の格差社会の空虚について」
どうやらぼくたちは世界の大革期にいるらしい。それと同時に「自分にとって大切なものってなんだろう?」的な問いが人類の間で増えたような気がする。またしても人類はいつの時代も異常事態が起きないと退屈に見える日常のありがたみが分からない種族であることが証明されてしまった。「ヒトは忘却の生き物である」とヘルマンが言っていましたがぼくも打倒パスカルを掲げ日常への感謝を忘れないようにしたいと思う所存であります。
ところで最近のぼくは「先住民族の格差社会」について関心があり、現代社会における格差に通じるところがあり興味深かったことがあったので書いておきます。
それは「宝が生む格差社会」についてです。現代のぼくたちは宝というと何を思い浮かべるでしょうか。家族でしょうか、お金でしょうか、キャリア、人脈でしょうか。宝の中でも現代社会において格差と直結するのは「お金」でしょう。そもそもなぜお金の有無が格差と認識されるのだろう?誰もがお金は紙で出来ていることは知っているのにも関わらず、お金持ち=紙をたくさん持ってる人に媚びへつらう人類が多く見られるのはなぜだろうか???的なことをぼくはよく思う。週5で思います。はい。
ここで言いたいことは現代における格差=お金の有無であるということです。
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実は先住民族にも「お金による格差社会」ではないですが「宝による格差社会」は存在したらしい。これがめちゃめちゃウケたので書いています。
北西海外先住民族の至高の宝は「銅板」と言われる銅の板らしいです。アイヌ民族は鍬形といわれる鉄などの金属に漆を塗った銀メッキを最高ランクの宝にしていました。
↓銅板
↓アイヌの鍬形
この「特有の宝」を持つことにより、先住民族は尊敬され首長となり莫大な権力と地位や奴隷などを獲得することができたそうで。このような価値基準の話はとても興味深いです。小学校の時は運動神経が良い子がモテるし中学校の時は将来性0の悪そうな奴がモテるという今となっては謎な評価基準が確かに存在しましたがそれと同じ話です。
現代のぼくらが銅板や鍬形をもっていたからモテたり社会的地位が高くなるか?といわれたら天変地異が起きてもなりません。個人的には鍬形をもってニヤニヤしている変態知識人は大好きですがねぇ。
ぼくはこの宝の写真を見たときに、これによって権力をもつ輩がいて媚びへつらう人がいて真剣に一喜一憂してる姿は現代の僕らにとってコントそのものだと半笑いで思いました。
ここで言いたいことは各コミュニティーによって「宝」はそれぞれであるし、違うコミニティーの人間から見たらその「宝」はおもちゃにすぎないということです。
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貨幣の誕生以来、多くの現代人は貨幣を宝とみなしてきました。お金があれば地位を獲得し、女を得て名声を得ることができるからです。こういった現代社会を未来人から見てみると貨幣とかは本当におもちゃなんですよね。ぼくたちがアイヌ民族の鍬形がおもちゃに見えるように、アイヌ民族からみると一万円札は慶応おぼっちゃまが書かれている紙のオモチャにしか見えないと思うし、ましてやオモチャを巡って一喜一憂して命を落とす姿はコントの域を超えてもはやホラーっすよ。マジで。これがタイトルに書いた「おもちゃのような宝によって成立している格差社会」という意味で、めちゃめちゃ空虚な世界でぼくは生きているなぁと力が抜ける瞬間が週6で訪れてどうしたものかという話でした。
あと2018年は仮想通貨バブルがありましたが,そのコミニティー独自の価値の創出はとてもおもしろいなと思います。じゃあここで個人的に興味が湧くのが「どのようなきっかけでおもちゃが宝に転じるのか?」という話です。ガラクタを宝に変える創造のテクニックの話です。次回はそういうことを考察して書きたいなと。
おしまい。