組織はまず「仲良く」ある方がいい
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こんにちは。kaztoです。VUCAな人生を楽しんでいますか?
最近、どういうチームを目指すべきか、目指したいかということをディスカッションする機会があったので、考えをまとめておきます。
そこに、愛は、あるんか?
結論を申し上げますと、タイトルのとおりなのですが、なぜか。
心理的安全性と仲の良い悪い、の二軸を考えますと、4つの象限は下図のようにあらわすことができます。
仲が悪く、心理的安全性も低い
⇒ 絶望、無関心仲が悪いが、心理的安全性は担保できている(果たしてそれが心理的安全性が担保できていると言えるかどうかはビミョーなのですが・・・)
⇒ ギスギス仲が良いが、心理的安全性が低い
⇒ なれ合い仲が良く、心理的安全性も高い
⇒ 健全な議論ができる
もちろんベストな状態は、健全な議論ができる状態であることは言うまでもありません。
では、次にいいのは「ギスギス」か「なれ合い」かになるかと思いますが、私は「なれ合い」の状態の方が圧倒的にマシな状態である、と考えています。
「ギスギス」「なれ合い」のいずれかから「健全な議論」ができる状態に遷移する難易度が、圧倒的に「なれ合い」からの方がカンタンだからです。健全な議論ができる状態では、なんでも(時には厳しい指摘を交わすことも)言い合うことができます。これが成り立つためには、互いを尊敬し、思いやりを持った上でなければ成立しません。
「なれ合い」状態では、すでに仲がよく、互いを尊敬する下地はできています。ここで、相手を思いやった上で、勇気を持って議論を交わすことができれば「健全な議論」ができる状態へ遷移できます。
一方「ギスギス」状態では、なんでも言い合うことはできますが、相手を思いやる気持ちはありません。ここに対して「相手を思いやれ」と言っても、難易度は高いと考えられます。
そこに、愛は、あるんか?(再)
ここから、2つ目の話題になるのですが、相手を思いやる、愛を持つ、というのは、仕事上の付き合いの中では難易度の高いシーンがあるかも知れないなぁ、とも思います。
それは、『あなたは、「仕事ができない」「足を引っ張る」「成績が悪い」同僚を愛することができますか?』という問いが全てを物語っているように思います。
特に仕事に対してプライドを高く持って臨んでいらっしゃる方にいがちなのですが、「仕事ができない」方を軽んじて接してしまう場合を見受けられます。
私は、これに異を唱えます。果たして、仕事の成績の優劣によってその人のすべてを断じることができるのでしょうか(反語)。
なぜ「仕事ができない」人を軽視してしまうのかというと、「できない」ことに着目してしまっていること、減点法の視点が根付いてしまっていることが原因ではないかと考えています。できないことに着目した結果、自分に対する影響を考えてイライラしてしまうことにもよるかと思います。
ここはぜひとも加点法、「何ができるか」に着目して接していただきたいところではあります。
加点法で同僚を視るもうひとつの利点として、「過度の期待をしないで済む」というのもあるかと思います。
「これくらいはやってくれるだろう」という期待が「こんなこともできないのか」という失望に変わる瞬間というのは往々にして見受けられます。
極論であることを承知の上で申し上げますと、仕事において他人に期待するというのは筋悪であると私は考えています。他人はアンコントローラブルであるというのが常であり、そこに対して予測を立てるのは不確実性が高いのではないでしょうか。
一見すると「期待を持つ」ことと「愛を持つ」ことは近しいように感じますが、尊敬しあう関係であればこそ「期待をしない」ことが重要であると感じています。
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