『近代家族の変遷』 Vol5/宮廷社会の女性文化-特権階級のプラトニックな恋愛模様-
20世紀以前の歴史学・社会学・経済学では、男性社会の「公的分野」が取り沙汰され、家庭や地域社会における女性の「私的分野」は見過ごされる傾向にありました。民主主義や国民国家という偉大な「発明」は、男性の宗教的、政治的、経済的な闘争の果てに勝ち取られた所産であるという考え方は、現代にも引き継がれているように思えます。このような歴史観に対して、20世紀を代表するフランスの哲学者『シモーヌ・ド・ボーヴォワール』は、著書『第二の性』の中で、「男性が主体的な存在として社会的、歴史的に価値ある役割を与えられる一方で、女性はその対立としての役割に追いやられ、女性は独自の価値を認められないまま、社会や文化において常に男性の『付属物』として扱われてきた」と主張しました。
ボーヴォワールの「人は女に生まれるのではなく、女になるのだ」という有名な一節は、生物学的な性ではなく、社会的・文化的に創出されたジェンダーが、女性の生き方を規定していることを示唆しました。そして、宗教、政治、仕事、家庭、教育、メディアなど、社会のあらゆる側面が女性に従順さ及び服従を要求し、成長や自立心を阻害していると非難しました。ボーヴォワールの主張は、社会におけるの「女性の位置」を再考する機会を与え、性差別やジェンダー不平等という社会構造を批判的に捉える視点を提示したのです。
21世紀以降、ボーヴォワールらフェミニストたちの活躍もあり、社会の「私的分野」に関する研究は大きく進展しました。その中で明らかになったのは、あまねく女性たちが人類の歴史に深い影響を与えてきたという事実です。これまで女性たちは社会的弱者としての側面が強調され、歴史を通じて「弱々しく」「愚かで」「主体性を持たない」などというレッテルを貼られてきました。しかし、実体としての女性たちは、政治の支配者であり、経済の主体者であり、文化の担い手だったのです。
-宮廷社会の支配者たち-
時代や地域によって異なりますが、宮廷社会における女性の地位は非常に高く、政治権力や文化的発展に深く根付いていました。特にヨーロッパのルネサンス期から絶対王政期の宮廷内では絶大な影響力を持ち、一部の女性は教皇や国王に対しても対等な立場で発言できるほどでした。
◇宮廷内における女性の地位と役割
宮廷社会の女性たちは、国王や貴族といった特権階級の妻、娘、姉妹として特権的な地位を享受しましたが、中でも王妃は「国際関係の安定化」と「後継者の出産」という重要な役割を担っていました。軍事的・政治的な衝突の多かったヨーロッパ社会では、外交的な政略結婚を通じて国際関係の安定や強化を図る必要があり、そのためには政治的な取引よりも縁者になることが最善策だったのです。また王妃は、同盟国同士が王位継承権をめぐって争わないよう「正当な後継者」を生むことが期待されました。特に男子を生むことは、王家の存続に直結する重大な政治問題でした。
宮廷内では王妃以外の女性たちにも政治的な役割がありました。彼女たちは宮廷サロンや舞踏会といった政治的交流の場である「社交界」において、各国の有力者と人脈を築く必要があったのです。社交界には特権階級の貴族をはじめとして、知識人や芸術家も集まり、政治・経済・哲学・芸術など、あらゆる分野の議論が交わされました。宮廷内の女性たちは、彼らと親交を深めることで国家同士の緊張を和らげ、経済的・文化的交流の発展に貢献したのです。とりわけ、彼女たちは文化的なパトロンとして活躍し、芸術や文学の保護者としても活躍することになりました。
このように、宮廷とは単なる居住地ではなく、国際政治の拠点という性質を備えていました。17世紀後半から18世紀初頭、ヴェルサイユ宮廷で日常的に絢爛豪華な生活が営まれたのは、王室の経済的・文化的水準の高さを誇示することで、軍事的な争いを回避する国際政治上の狙いがあったのです。その中で、特権階級の女性たちは、権力闘争や政治的陰謀に巻き込まれないよう細心の注意を払いながら、間接的に政治をコントロールしたのです。
一般的な理解だと、宮廷内の女性たちは特権階級の男性たちに管理され、まるで所有物のように隷属している印象があるかもしれません。しかし、実際の宮廷社会における男性たちは、常に女性たちからの「評判」を意識しなければならず、特権階級として恥じない振る舞いを強いられることになりました。この時代、表向きには男性が宮廷を支配する政治体制が敷かれていましたが、裏では女性たちが知恵や勇気、時には美貌を駆使して国政や外交に多大な影響を与えていたことが分かったのです。
◇市民層から見た宮廷文化と特権階級の女性たち
市民層にとって特権階級の生活は羨望や模倣の対象でした。特に17世紀から18世紀のヨーロッパでは『重商主義政策』の影響もあってか、国家間で熾烈な経済競争が繰り広げられ、市民層にとっても宮廷内の消費が顕著に見てとれるほどでした。とりわけ特権階級の女性たちは、国家の象徴やシンボルとして国内外に強い権威を示す必要があったので、彼女たちの消費行動は『誇示的消費』、いわゆる「見せびらかし」という性質を押し出すようになっていきました。宮廷内の女性たちは、食事、ファッション、インテリア、調度品、あらゆる商品を贅沢品で揃え、自らの地位と権威を人々に見せつけたのです。
当時のヨーロッパ社会は、植民地経営などによって領土と経済基盤を拡大している最中でした。蓄積された富は宮廷を中心に都市部でも消費され、国内産業の発展に大きな影響を与えていました。そして特権階級たちの派手な消費文化は多くの人々を魅了し、都市部へと引き寄せたのです。これによって、特権階級の贅沢な生活様式に憧れた市民層、特に経済的に余裕のあるブルジョワジーは、宮廷内のファッションやインテリアを模倣するようになりました。特筆すべきは、労働者階級には無縁だったはずの宮廷社会の文化が、家事奉公人を介して下層社会にも伝えられるようになったことです。ブルジョワジーの家庭に居候していた家事奉公人たちは、雇い主である彼らの生活様式に触れることで、間接的にではあるものの宮廷社会の文化について知ることができたのです。下層社会と大きく異なる宮廷文化の生活は、労働者階級の人々に衝撃を与え、労働者たちの間にも消費の欲求を抱かせることになりました。このような状況が影響してか、17世紀から18世紀にかけてのヨーロッパでは『消費革命』が起こり、比較的安価な服飾品や装飾品が一般的な市民層にも広がったのです。
一方で、平等や理性を重視する啓蒙思想や、禁欲的な生活を実践するカルヴァン的信仰心も市民層の価値観に影響を与えていました。近代社会の基盤となるこれらイデオロギーは、絶対王政や特権階級に対して強い抵抗を示す契機となり、宮廷内の豪華な生活様式は批判の対象となりました。そして、フランス革命期になると、宮廷社会の浪費が庶民の生活を圧迫しているとして反発が強まり、特権階級の存在そのものが政治的・社会的に糾弾されるようになります。特に王妃や貴族女性たちは権威を示すための誇示的消費を行なっていたので、その贅沢な生活ぶりは批判の的となり、「貴族こそが腐敗の象徴」とみなされるようになっていきました。
-婚姻制度と恋愛文化-
宮廷社会の女性たちが社会に与えた影響は、政治的・文化的・社会的な範疇にとどまりません。彼女たちの「恋愛文化」もまた、ヨーロッパ社会に大きな変化をもたらすことになります。上述したように、宮廷社会における結婚は現代の結婚観とは異なり、個人の感情よりも同盟関係が重視され、また後継者を残すための重要な儀式だったことは説明した通りです。しかし、政治的な駆け引きとは関係なく、「プラトニックな愛」や「高貴で献身的な愛」を理想として追い求める「恋愛」も宮廷社会では重要なものだったのです。特にフランスやイギリスでは、愛による美徳や高潔さが強調され、結婚の現実的な側面とは対照的に「男女の恋愛関係」が美化される傾向にあったのです。
◇プラトニックな愛と騎士道精神
宮廷社会における恋愛文化には伝統的なヨーロッパ社会の思想が色濃く反映されています。まず、「プラトニックな愛」とは、古代ギリシャの哲学者『プラトン』の思想に基づく「精神的で純粋な愛」を意味したものです。この愛の特徴は、肉体的な欲望に依存せず、精神的な絆や相互理解を重視し、「人間の美しさや真理に至るための過程」という性質を備えていたことです。そのため、プラトニックな愛は深い友情とも重なる部分があり、相手の成長や幸福を願い、互いの支えとなるような関係を目指す人間関係だと解釈することも可能です。
「高貴で献身的な愛」とは、主に中世ヨーロッパの騎士や貴族たちの間で重んじられた「騎士道に基づく愛情」のことです。中世ヨーロッパにおける騎士たちは、主君に対して忠誠を誓い、奉仕を怠らないことが理想とされていました。こうした騎士階級の精神性を『騎士道』と呼び、この騎士道精神に基づいて多くの詩や文学がヨーロッパで大流行したのです。物語の中に登場する騎士たちは、愛のために自己犠牲や忠誠を捧げ、葛藤しながら成長する姿が描かれていました。このような報われない愛に自身を照らし合わせる風潮は特権階級の間にしばしば見られ、彼らは物語として美化された恋愛に傾倒するようになりました。
ヨーロッパ社会で「プラトニックな愛」や「高貴で献身的な愛」の概念が受け入れられてきたのは、その背景にキリスト教文化の影響があったことに由来します。キリスト教における「隣人愛」や「神への愛」は、魂の成長や救済、他者への無私の奉仕が重要とされるため、純粋な愛を追求するという古代ギリシアのプラトン的思想や、自分を犠牲に忠義を全うする騎士道精神の在り方と調和していたのです。加えて、ヨーロッパ社会では長らく宗教的権威によって「性」が管理され、性的な要素を孕むものは全て厳格に罰せられてきました。キリスト教文化における「一夫一妻」や「浮気の禁止」などは、信仰を通じて人々の生活に深く根付いており、女性への処女性が強く求められたのも、このような文脈の中で生まれたものでした。
ところが、ルネサンス期から近世にかけて教会の権威が低下すると、自由な「人間性」を追い求める人文主義的の思想が芽生え、「性」に対する認識も変容していったのです。その後、18世紀ヨーロッパの経済的・文化的な繁栄の中で、詩・文学・絵画に蓄積された古典的な人間観や恋愛観に触れる機会が多くなり、宮廷内の恋愛文化が急速に発展することになったと考えられます。
-妾と高等娼婦の役割-
ルネサンス期の宮廷社会では、男女のプラトニックな関係をある種の宗教的・文化的教養だと考えるようになり、キリスト教における一夫一妻に対する意識は薄れていきました。公に浮気や性的な行為が看過されることはありませんでしたが、次第に男女関係は変容していきます。そして、18世紀ごろになると「結婚と恋愛の分離」と呼べるような現象が顕著になっていきます。結婚が政治的な同盟を強固にする儀式であり、社会的役割として認識される一方で、恋愛は個人的な感情を解放する行為であり、政治とは関係のない私情に溢れたものだという認識は生まれたのです。
◇宮廷社会における「妾」の役割
このような状況の中で政治的・社会的影響力を持つことになったのが「妾」と呼ばれる存在です。妾とは、本妻とは異なり公的な地位を持たないものの、国王や貴族の側近として親密な関係になることを許された女性のことです。彼女たちは国王や貴族の親密なパートナとして、政治的な助言や外交上の仲介を行い、宮廷内において大きな役割を果たしました。
宮廷社会における「妾」という存在を理解する上で、最も分かりやすく参考になるのが、フランス国王ルイ15世の愛妾だった『ポンパドゥール夫人』です。ポンパドゥール(ジャンヌ=アントワネット・ポワソン、1721〜1764)は、中産階級の家庭に生まれ、教育熱心な母親のもとで教養を高め、文学や美術に精通する才女として成長しました。そして1741年、役人一家の嫡子である『シャルル=ギヨーム・ル・ノルマン・デティオール』と結婚します。夫の叔父が資産家だったこともあって、彼女が超一流のサロンに出入りするようになると、優れた文化人や特権階級たちとの交流が増え、少しずつ彼女の文化的才能と美貌が広まるようになりました。1744年、ルイ15世から『ポンパドゥール侯爵夫人』の称号を授かり、フランス王室に迎え入れられたことを理由に夫と別居、翌年には正式な「妾」となります。妾となったポンパドゥール夫人は、ルイ15世にとって恋愛相手であり、友人であり、信頼する相談役だったと言われています。
彼女について特筆すべきは、政治と芸術の分野で優れた才能を発揮し、フランス社会に大きく貢献したことです。政治の分野では、長年敵対関係にあったオーストリアとの間に外交が生まれる契機を作り、芸術の分野では、教養を生かして多くの文学者・哲学者・芸術家たちを支援しました。フランス・ロココ様式と呼ばれる繊細で華やかな装飾やデザインを発展させたのも彼女の功績に寄るところが大きいとされています。また、ポンパドゥール夫人は中産階級出身だったこともあり、当時勃興しつつあった啓蒙思想をフランス内外で広めたことでも有名です。ポンパドゥール夫人の活躍は特異な事例ではあるものの、このように妾の存在は単に男性の欲求を満たす愛人や浮気相手とは異なる存在であったことが分かります。
◇ヨーロッパにおける「娼婦」の役割
ヨーロッパにおける娼婦は、宗教的価値観・文化的価値観・社会の経済状況などの影響を受けながら、古代から現代に至るまで都市社会の重要な存在として多面的な役割を果たしてきました。中でも「高等娼婦」と呼ばれる女性たちは、高い教養と美貌を兼ね備え、上流階級の男性と交流し、政治や文化に影響を与えました。特にルネサンス期から19世紀にかけての高等娼婦たちは、知識人や芸術家としての役割も担い、文学や芸術、時には政治の場においても存在感を発揮しました。
1. 古代ギリシャ・ローマ
古代ギリシャやローマにおける娼婦は、社会的に許容された存在であり、中でも「ヘタイラ」と呼ばれるギリシャの高級娼婦は、知識や教養を兼ね備えた女性として上流階級と関わり、政治や文化に影響を与えることもありました。またローマでは、娼婦が存在することで家庭の安定が保たれると考えられており、職業として重宝される面もありました。
2. 中世ヨーロッパ
中世ヨーロッパになるとキリスト教の価値観が大きく影響したことで、教会は娼婦を「罪深い存在」と見なすようになりました。しかし、社会の「穢れ」や「呪物」を一手に引き受ける「必要悪」として娼婦の存在を許容するという側面もあり、都市では公的に管理された娼館(ボルデル)が運営されることもありました。彼女たちは宗教的価値観の影響から忌避され、隔離された区域に住むことが一般的でしたが、実態としては聖職者、貴族、兵士、商人など、様々な職業の男性たちと秘密裏に交流があったとされています。
3. ルネサンス期
商業の発展や都市化の影響で人々の生活が豊かになり、娼婦の需要が増加することになりました。特にイタリアの都市部では娼婦になる女性が増加し、その中から高級娼婦(クルティザンヌ)が登場することになります。彼女たちは知識と教養を活かしながら知識人や芸術家と交際し、文学や美術のパトロンとしてヨーロッパ文化に貢献しました。しかし、近世になると多くの都市で娼婦の取り締まりが強化されるようになります。これは宗教改革等によって権威を失いつつあった教会勢力が自らの社会的地位を高めるため、公衆衛生や道徳の名のもとに娼館の閉鎖や移転を行なったことに由来します。一説によれば、表向きには取り締まりを強化したものの、植民地に娼館を設置したことで現地の娼婦とは引き続き性交渉が行われていたとされています。
4.産業革命期
18世紀に入ると産業革命の影響で都市部に移住してきた貧困層の女性たちが娼婦化していきます。これらの女性たちは下層社会に身を置き、劣悪な環境下で性交渉に応じたため「性病」が蔓延する事態となりました。特にイギリスでは社会問題として注目され、性病予防のために「伝染病法」を施行することになります。こうして下層社会の娼婦たちは、政府によって監視・検査の対象となりますが、高等娼婦に該当する一部の女性たちは社会的制裁を免れる傾向にあったため、不平等な制裁に対する反対運動が下層社会の女性たちの間で活性化することとなりました。
5.人権思想の拡大期
19世紀から20世紀にかけてのヨーロッパでは、人権思想の拡大に呼応して娼婦の権利向上を目指す動きが見られるようになりました。また、キリスト教的な性倫理観が衰退したことや、経済的・軍事的側面において人口を重視する政策方針が取られるようになったことなども、娼婦の権利向上に繋がる要因になっています。結果として、性労働者の人権を守ろうとする意識が芽生え、労働権や健康管理の向上が図られるようになりました。特にオランダやドイツでは娼婦が合法的な存在として認識されるようになったのです。
◇宮廷女性から見た高等娼婦
宮廷女性と高等娼婦は、権力者や上流階級の男性に近しい存在という意味では共通していますが、その立場と出自は大きく異なります。宮廷女性は王族や貴族の血統によって社会的地位を守られていたのに対し、高等娼婦は教養や美貌といった「個人的な資質」を用いて社会的地位を築いていました。宮廷内の女性たちから見た高等娼婦たちは、宮廷社会の政治闘争とは関係のないところから突如として現れ、急速に社会的地位を奪っていくように思えたのです。宮廷内の女性たちにとって彼女たちの存在は、自身の地位や影響力を維持する上での競争相手として映り、嫉妬や批判の対象になりました。
一方、政治的な責任や家系の存続という重要な役割を担っていた宮廷女性にとって、出自に関係なく自らの資質のみで評価され、宮廷社会に迎え入れられる高等娼婦の存在を、憧れの対象や一つの生き方として見つめる女性もいました。社会的身分に囚われない自立した高等娼婦の生き方は、自由の象徴のようにも映ったのです。中でも、美化された恋愛が流行していた18世紀の宮廷社会において、高等娼婦たちは「自由な恋愛」を連想させるシンボルとなり、一部の宮廷女性たちは彼女たちの「立ち振る舞い」を模倣するようにもなったのです。
とはいえ、宗教的価値観や伝統的な特権意識を持つ多くの宮廷女性からすれば、高等娼婦たちは出自の分からない有象無象であり、キリスト教の倫理観に背く罪深い存在であるという認識は変わりませんでした。こうした影響から、高等娼婦の女性たちがどれだけ優れた資質を持っていたとしても、上流社会の中で「正当性」を持つことはなく、彼女たちはあくまで「非公式な存在」という立場で留まることになったのです。
-宮廷文化の衰退と市民意識の拡大-
上述したように、フランス革命以降のヨーロッパ社会では、特権階級に対する激しい糾弾がはじまります。そして、1793年にフランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットが処刑され、フランスの絶対王政が終わりを告げます。このセンセーショナルな出来事はヨーロッパ中の特権階級に衝撃を与え、特にフランス周辺の君主国であるオーストリア、プロイセン(ドイツ)、スペインなどは革命の飛び火を恐れる事態となりました。最終的に特権階級たちの抵抗は全て鎮圧され、ヨーロッパ社会を支配し続けた伝統的な専制政治は崩壊、宮廷社会はその長い歴史の幕を閉じました。
19世紀になると、衰退した宮廷文化の代わりにブルジョワジーたちを中心とする消費文化が普及しました。そして、この消費文化は宮廷社会の政治闘争とは異なり、資本主義社会による経済競争によって熾烈さを増していくことになります。
-総括-
宮廷社会を取り巻く女性たちは、特権階級であれ、妾であれ、高等娼婦であれ、その高い教養や美貌を駆使して政治的・文化的・社会的影響力を手に入れてきました。とりわけ、特権階級の女性たちは「国際関係の安定化」と「後継者の出産」という重要な役割を任され、彼女たちの活躍によってヨーロッパの社会秩序が保たれていたことは間違いありません。しかし、一般的な通念から解釈すれば、彼女たちは「個人」としての自由や意志を奪われ、政治的な道具として利用されているように思えるかもしれません。同様に、妾や高等娼婦などの女性たちも「女性としての魅力」が優先され、「個人の資質」は付加価値に過ぎず、男性に気に入られることで、はじめて社会的地位(非公式な)が認められる存在に思えるかもしれません。確かに、このような視点から女性史を解釈すれば、ボーヴォワールの「男性が主体的な存在として社会的、歴史的に価値ある役割を与えられる一方で、女性はその対立としての役割に追いやられ、女性は独自の価値を認められないまま、社会や文化において常に男性の『付属物』として扱われてきた」とする主張は間違いないように思えます。加えて、20世紀に入ると、2度の世界大戦・米ソの冷戦・中東戦争など、世界情勢は常に緊張状態だったため、男性が「戦争」という行為の主体者として権威や権力を発揮する以上、どれだけ視野を広げても歴史的な女性像をアップデートすることは難しかったと考えられます。
ところが、冒頭でも述べたように、21世紀に入ってから上記の女性像に対して懐疑的な目が向けられるようになります。「本当に女性たちは社会や文化において常に男性の『付属物』として扱われてきたのか?」このような問いの中で再発見されたのは、彼女たちが政治的・文化的・社会的影響力を使って男性社会をコントロールし、自身の代わりに競わせてきたという荒々しい側面です。
特筆すべきは、妾や高等娼婦などの女性たちが「個人的な資質」で社会的地位を築き上げたことです。彼女たちは、人間社会に特権階級が誕生して以来、多くの人々が自力では脱却することのできなかった隷属状態から抜け出すことに成功した極めて稀有な存在なのです。そこには男性に都合よく利用される愛人という悲哀な面影は一切なく、社会的役割を背負った個人としての生き様が見てとれます。このような事実が再発見される度、女性に対する「弱々しく」「愚かで」「主体性を持たない」という社会の印象は陰を潜めることになりました。そして、次第にそれは現代の新しい女性像が再構築される契機へと繋がっていったのです。
Vol5/宮廷社会の女性たち-特権階級のプラトニックな恋愛模様-
ー終ー