私のライフヒストリーについて
20代の時はこれまでの人生を端的にストーリー仕立てで話すことができたのですが、40歳近くなると、初めてお会いする方にこれまでの人生について話そうとすると、お互いにツッコミどころも満載でかなり時間を要するため、「ま、おいおい話しましょう」と端折ってしまうことが多いなぁと感じる今日この頃です。
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そこで、「どんな人なの?」というのを興味をお持ちいただいた方には読んでもらったらいいじゃん、ということで文章にまとめたら、短編小説くらいのボリュームとなりました。
これまでの人生について赤裸々に綴っております。ご興味をお持ちいただいた方に、ご笑覧いただけたら嬉しいです。
枚方時代(0~4歳/1987~1991)
祝福の光の中で生まれたやんちゃな幼年期
私は父(当時29歳)と母(当時27歳)の第一子として生まれました。母が実家の徳島で里帰り出産をして、父の実家もすぐ近くにあったので、出産時には両方の祖父母が病院まで立ち会ってくれたそうです。
母は「後にも先にも孫で全員の祖父母に立ち会ってもらえたのはあなただけ」「分娩室に行く時にはおじいさんたちをシッシとおばあさんたちが追いやってね。おもしろかったわ」と誕生日の折に話して聞かせてくれます。
祝福されながら産まれて来たという人生の始まりをありがたく思います。
父は「ひかり」と名付けたかったそうですが、父方の祖母曰く「あんまり良い名前じゃないでぇ。ほんでもお寺のおじいさん(母方の祖父)が決めてくれた名前だったら申し訳ないなぁと思っとったら、利夫ちゃん(父)が言い出した名前やって分かってすぐ反対したんよ。」とのこと。
そして、僧侶で占いもできる母方の祖父が山添という苗字に合わせて「晶子(しょうこ)」と名付けてくれたそうです。
特にこういった願いを込めてつけたという話は聞いていませんが、母は「あなたの名前にはお日様が三つもある」とよく言います。「なんか明るい感じなんやろな」と子供心に思っていました。
父は淀屋橋にある電気設備工事会社のサラリーマン、母は結婚を機に保育士の仕事を辞めて専業主婦として暮らしていました。
住まいは大阪府枚方市にある団地でした。国道沿いのバス停から父が仕事に出かけるのをいつも眺めていました。公園もスーパーもすぐ近くにあり、当時の私の行動範囲はほとんど団地内で完結していました。
近所のお姉ちゃんたちが幼稚園から帰ってきて遊んでくれるのを楽しみにしていた私は、「早く私も幼稚園か保育園に行きたい」と心待ちにしていました。
2歳年下の弟が生まれたときは父の実家で過ごしました。初めて母と離れて過ごしたので印象的だったのだと思います。もしかすると、妹が誕生した時の記憶と混同しているかもしれませんが、弟を病院に見に行った日は雪が降っていました。
私は、母のママ友たちから「2人目の子も晶子ちゃんみたいだったらどうするん?」と心配されるくらいにやんちゃなタイプだったようです。ママ友のみなさんの心配は杞憂に終わり、弟は私とは対局に慎重で臆病なタイプでした。母が近所のスーパーに買い物に行くために少し留守にしただけで、弟は「おかあさ〜ん」と玄関で泣き叫んでいました。母が帰ってくるまで泣き続けていたので、「ほんとよく泣くよなぁ。疲れんのかしら?」と私は不思議に思っていました。粘り強さも弟に軍配が上がります。
母曰く、私は目を離した隙に散歩している犬の目に指を突っ込んだり、公園に咲いている花を引きちぎるような子で、弟は「ここで待っててね」と言うとずっと待っていて、公園に咲いている花を「綺麗だね」と愛でるような子だったそうです。私とは違う特性を持つ弟のお陰で、自分自身の強みや特徴とは何なのかを子どもの頃から考える癖がついたのは、ありがたいことだと思います。
週末は、枚方パーク・山田池公園・王仁公園など、色々な場所に家族で出かけていました。バブルの名残が感じられる花博に遊びに行ったのも印象的です。
今でも家族で笑い話になるのが厚生年金プールでのヒーローショーでの出来事です。鳥人戦隊ジェットマンが大好きだった私と弟は喜び勇んでショーを最前列で見ていました。すると、弟が悪役に連れ去られてしまったのです。
私は「おもしろい展開になったぞ」とニヤニヤ。けれど、本当に悪役に捕まってしまったと思った弟は大泣きで、中に入っている悪役が「そ、そんなに泣かなくてもいいじゃないか」とたじたじになっていたのが面白かったです。
母が3人目を妊娠し、検診に行く間、下の階に住む猫ばあちゃん(猫を飼っているので猫ばあちゃん)に預けられていたことをおぼろげに覚えています。その時はさすがに弟も泣いていなかったと記憶しています。
交野時代(4~11歳/1991~1998)
一輪車と駆け抜けた少女時代
私が4歳になる頃、妹が生まれました。産後すぐに妹の足首の骨に異常が見つかり、「2DKは手狭だし、エレベーターもない2階での暮らしは難しいかもしれない」ということになり、お隣の交野市の公営団地に引っ越しました。
母曰く、枚方の団地は障がいを持って生まれる子どもが多かったそうで、今思えば、ごみ焼却施設の近くだったのが原因なのではないかとのこと。ダイオキシンの問題が取り沙汰されるのはその5年後のことです。
交野の公営団地は1階が足の不自由な人たちが暮らせるように設計されたもので、同じフロアの人は、車椅子の人か歩きにくさを抱えた人が暮らしていました。まだ障がいに対して偏見の多い社会の中で、そのような環境で暮らしたことが、世の中への多様な視点を養ってくれたのかもしれません。
保育園に通い始めて印象的だったのは、他の子たちの絵の上手さと語彙の多さ。何もトレーニングを受けていなかった野生児みたいな私はそのギャップに辟易としたのを覚えています。自画像を描いたのが壁に貼り出されるのですが、本当に恥ずかしかったです。
もう一つ印象的なのはプールのときに男女関係なく一斉に着替え始めること。先生が「プールですよ」と言うと、いきなりみんながすっぽんぽんになったので「え、男の子も一緒に着替えるん?」と驚いて硬直してしまったことがあります。 今思えば、羞恥心が強かったのかもしれません。
保育園ではクラスの中で体が一番小さいこともあり、おままごとではいつも赤ちゃん役でした。4〜5月生まれの大きい女の子たちがいろんな遊びをリードするのを見て、ついていくのに必死でした。
家ではずっとお姉ちゃんなので保育園で赤ちゃん役として甘えられるのは嬉しかったですし、すでにクラスの中にはいじめっ子・いじめられっ子のヒエラルキーみたいなものが存在していて、どちらにもならなくて良い赤ちゃん役が楽で安全だなとも思っていました。この頃の体験から、子どもは大人が思うほど幼くないという価値観を持つようになりました。
一番仲がよかったのは団地の同じ棟の3階に住むくみちゃん。保育園が同じで、近くのスーパーの夏祭りでバッタリ出くわしたのを機に仲良くなりました。くみちゃんには3歳下の弟のよしくんがいて、私と弟とくみちゃんとよしくんとよく遊びました。
ある時、くみちゃんのお父さんに近くの交野山にハイキングに連れて行ってもらいました。気づいたら朝出かける時に着ていたトレーナーを失くしていて、お母さんに怒られました。子どもの時はよく落とし物・忘れ物をしていました。後に通信簿で「がんばろう」と指摘されるのが嫌で、なんとか修正していきました。
小学校に上がると、また同級生の語彙の豊富さや知識の多さに驚きました。幼稚園から上がってきた子は英語のアルファベットも知っていたのではないでしょうか。その頃から「幼稚園と保育園は違うんだ」「幼稚園の方が品が良くて、保育園の方がやんちゃ」という社会構造が生む違いのようなものを感じ取り始めていた気がします。
小学生になるときに母がポーラレディ(化粧品のセールス)の仕事を始め、両親が共働きとなったので、私は児童館に入ることになりました。
当時の児童館は共働きの家庭が増えたことに伴い、保護者の人たちが働きかけて小学校に付帯して作られたものでした。児童館を利用する家庭は1学年7〜8名(1学年100名強なので比率でいうと7%)という少なさ。
おのずと児童館に通う同学年のくみちゃん、ちひろちゃん、ちさとちゃん、ほづきちゃんと仲良くなり、放課後は毎日遊んで過ごす日々でした。
児童館では、けん玉・こま回し・竹馬などの昔ながらの遊びをお兄さん・お姉さんが教えてくれました。その中でも私が夢中になったのは一輪車です。おもちゃの類はほとんど買ってもらえなかったのですが、一輪車だけは家と祖母の家に1台ずつ買ってもらっていました。
放課後の時間のほとんどを一輪車に乗って過ごし、階段の上り下りができるくらいに上達したので、くみちゃんと「このまま中国雑技団に入れるかな」みたいな冗談を言ったりしていました。
激動の90年代と光と闇と
小学2年生の冬、阪神・淡路大震災が起きた年のことです。くみちゃんの両親が離婚して、くみちゃんは大阪市内へ引っ越すことになりました。「これ、秘密なんやけどな」とくみちゃんが教えてくれたときのショックを今でも覚えています。さらには、ほづきちゃんも震災の影響を受けて、引っ越すことになりました。私にとって、仲の良い友達が2人もいなくなる寂しい出来事でした。
3月には地下鉄サリン事件が起きて、首謀者の名前と近いので「しょ〜こ〜。しょ〜こ〜」と男の子からからかわれました。くみちゃんが「そんなこと言わんときぃや」とかばってくれました。
「守ってくれるくみちゃんが居なくなるから、強くならなきゃ」と思った私は、学級委員に立候補したり、生徒会に入ったり、集団の中でリーダーシップを発揮するようになりました。
運動会のリレーや球技大会など、休憩時間や放課後に呼びかけあって、練習を重ねて、優勝ができるという体験はチームで力を合わせる喜びとなりました。
児童館でお馴染みのちひろちゃん、ちさとちゃんに誘われて隣の小学校でソフトボールのクラブに加入したのもその頃。府大会にも出るくらいの強豪チームで、ハードな練習に驚きました。私はその中でも一番体が小さく、いつもベンチで、大してうまくもならず、練習も好きじゃなかったけれど、辞める選択肢は思いつきませんでした。
ソフトボールのお陰で基礎体力が上がり、学校内での運動能力は高い方になり、勉強もできたので、クラスの中心的な存在になっていました。初恋の男の子と両思いにもなり、楽しい小学生生活を過ごしていたと思います。
夏休みになると、徳島の母の実家に帰省し、従兄弟たちと遊ぶのが楽しみでした。当時は明石海峡大橋がまだ無かったので、帰省する際はフェリーで海を渡ります。それだけですごく大旅行に出ているような気持ちでした。
祖父母の家では、鶏、鯉、猫、鈴虫といろいろな動物を飼っていて、祖母がいろんなご馳走を作ってくれるし、優しくしてくれました。近くに住む父方の祖父母も自分達が作っている採れたての野菜をたくさん持ってきてくれました。ボウルいっぱいに入った甘いミニトマトを好きなだけ頬張りました。あまりに居心地が良いので、父母や弟妹は先に大阪に帰って、私1人だけ徳島に残って過ごすこともあったくらいでした。家では常にお姉ちゃんとして気張っていたので、徳島で祖母に甘えられるのが私にとっても幸せでした。
夏休みの別の思い出として、父の会社の保養所が南紀白浜にあったので、海で泳いだり、アドベンチャーワールドでシャチのショーを見たり、志摩スペイン村でアトラクションを楽しんだりしたことが印象に残っています。こうして振り返ってみると、父も母も共働きで忙しい中、よく遊びに連れて行ってくれたものだと思います。
小学4年生頃になると、各家庭の経済格差を明確に感じるようにもなりました。分かりやすいのは私が暮らしている「団地」とあの子が暮らしている「マンション」の違い。「一軒家」の子もいます。持ち物もそう。
「あの子はいろいろ買ってもらえるけど私は買ってもらえない。みんなは自分のものを買ってもらうのに、リコーダーも裁縫道具もなんでお母さんのお古なんだろう?自転車もソフトボールのスパイクも友達からのもらいもの。どうして新しいのを買ってもらえないんだろう?」
「貧乏」というふうに父母は決して言わなかったけれど、どうやら私はクラスの中でもかなり下の方の暮らしをしているようだ。と感じるようになりました。
小学生のときによく母に言っていたのは、「私も将来お母さんみたいにポーラレディになってお金を稼ぎたい」。自分で好きなものを買って、好きなものを食べられるように、お金を稼げるようになりたかったのです。
小学5年生には世の中でいろんな事件が起きました。
神戸市連続児童殺傷事件。犯人が近くにいるかもしれないということで集団下校したのが印象的です。
山一證券の破綻。連日ニュースが悲壮感を持って報じていて、「なんか経済もうまくいっていないんやな」と感じる出来事でした。
ノストラダムスの預言というのも報じられ始めて、「世の中終わってしまうんやろか」という暗いイメージを抱いていた記憶があります。
一方で、たまごっち、プリクラ、SPEED、GLAYとポップカルチャーも全盛期で「遊びたい、お金を使いたい」という欲求も世の中に渦巻いていましたし、私自身もそんな空気を感じ取っていました。
児童館は小学4年生までなので、小学5年生の放課後は門限までは親の目も気にすることなく自由に行動ができます。いろんな友達と出かけてはゲーセンや本屋に遊びに行っていました。
この頃の自分自身に沸き起こっていた感情を振り返ってみると、何かにつけ怒っていたように思います。クラスの男の子が騒がしかったら「静かにせえや」と力づくで収めようとしたり、女の子が私の方を見てこそこそ話していたら「なんか言いたいことあるんやったら直接言いや」と吹っかけたり、直情的で喧嘩っ早い少女でした。
「晶ちゃんは怒ったら怖いから敵に回したくない」と周囲からよく言われていました。
「同級生のお母さん方から、”晶子ちゃんはみんなの前ではっきり言いたいことを言えるのがうらやましい”って言われるわ」と母から聞いたときには、「逆に何でみんなは思ったことを声に出さんのやろう?不思議やなぁ」と思っていました。
そんな折、母が4人目の子供を妊娠しました。当時、私の父は給与の大半を不動産投資に費やし、母はポーラの支店を作るために化粧品を買い取る、ということをしていた中、経済情勢が悪くなるようなニュースが相次いでいました。
借金を抱えながら2LDKの狭小住宅で子ども3人を子育てしている様子を見るに見かねた祖父母が「地元に戻ってきなさい」と提案したのがきっかけだったようです。
「来年から徳島のじいちゃんばあちゃんのところで暮らすことになったよ。」と母から言われたときは、大好きな祖父母と暮らせる嬉しさと、学校やソフトボールの友達とお別れしなければならない寂しさの入り混じった気持ちでした。小学2年生の時に引っ越した後も、時々は遊べていた幼馴染のくみちゃんとも会えなくなるのが辛かったです。
その年の秋、父の会社の保養所が長野の木曽福島にあったので、家族で旅行に出かけました。東海道の馬籠宿を散策したり、そばを食べたり、森の中でパターゴルフを楽しみました。当時は「なんでこんな時期に急に旅行に出かけることにしたんだろう?」と不思議でした。
今振り返ると、徳島に帰り、母の実家のお寺を継ぐということは、365日いつ発生するか分からないお葬式に備えるということ。つまり、気軽に旅行に行けなくなるということだったのです。
実際、これが私たち家族全員で行った最後の旅行となりました。
その年の冬、11歳下の妹が誕生しました。
生まれたときはとても小さくて可愛くて、「どんな世の中になったとしても、この子を守らなきゃいけない」と思いました。
祖父が出してくれていた名前の中から
「はるかはもう使っちゃったし、あとはみちこちゃんってのとあゆみちゃんってのがあったよね」
「あゆみが可愛いんちゃう。コナンくんでも出てくるし」
と家族みんなで話し合い「あゆみ」という名前にしました。
小6・中学(12~15歳/1998~2001)
大阪から徳島へ・人生の転機と心の葛藤
徳島にある母の実家は真言宗の寺院でした。父の実家は寺院の檀家で、寺の山の上に昔から住んでいる一家でした。
父と母は2歳差で近所に住んでいるので、幼少期に一緒に遊ぶようなことがあってもよさそうなものでしたが、父はガキ大将で母は内向的なタイプだったので全く関わりはなかったそうです。
近所のおばさんの紹介で見合いをすることになったとき、父はすでに何度も見合いを断っており、これ以上断れない状況になっていて母との結婚を決断せざるを得なかったそうです。
当初は婿養子に入ったりしなくてよいという話だったので結婚を決めたそうですが、結局は母の実家に父が養子に入り、寺院の仕事を継ぐことになりました。私たち家族の苗字は山添から七條に変わりました。
母方の祖父は大正15年生まれ。長崎の対馬で生まれ、長崎市で育ち、川崎重工の造船所の技術者として働いていました。戦争で満州へ徴兵され、終戦後、生まれ育った街が原爆で無残に破壊され、その後片付けをしたときに無常を感じて出家しました。祖父の実家は禅宗でしたが、一番難しくて勉強しがいがあると思って真言宗を選んだそうです。
その後、愛媛県西条市の前神寺で修行を重ねる中、檀家さんの法事で祖母と出会います。祖父は当時、保育士として働いていた祖母の様子を「ストーキング」していたそう(笑)。祖母との見合いをセットしてもらい、結婚。祖父が34歳、祖母が31歳の時に第一子となる母が生まれます。
母が喘息持ちだったため、空気の綺麗なところへ引っ越そうと祖父は決意。
徳島県西部の空き寺となっていた極楽寺へ祖父母と母と叔母が移り住むこととなりました。
前任の僧侶はギャンブル好きでお寺のお金を使い込み、お寺の土地も売り払ってしまい、檀家さんが見るに見かねて追い出したそうです。
「ボロボロになっていた荒れ寺を復興するのは、それはそれは大変だった」と何度も祖母から聞かされました。
徳島県西部といえば、山あいの集落です。よそ者である祖父母はなかなか地域の人に受け入れられませんでした。二人とも愛想のあるタイプではないのでなおのこと苦労したであろうと推察されます。
そのような中でお寺の復興をしていく祖父母の様子を見て育った母は「じいちゃんばあちゃんが築いた信頼を崩すようなことは絶対にしたらいかん」とよく言いました。
郊外都市のサラリーマン・鍵っ子家庭から、地方過疎地の寺院・大家族の家庭へのシフトは、私の人生の一番の転機だったと言えます。
父は当時、40歳。脱サラして僧侶となりました。当時景気が悪かったのでサラリーマンの同僚からも「いいなぁ」とうらやましがられたそうです。「新天地でやってやるぞ」と意気込んでいましたが思うようにいかず、祖父母(彼にとって義理の父母)ともうまくいかず、お酒に溺れていきました。
母は、「両親の言いなりで育ってきた私は無力だ」という思い込みがあり、自らで考えることを諦めてしまいました。何かにつけ「じいちゃんに〜と言われるから」「周りの人に〜と言われるから」という理由で私たちの行動を制約するようになりました。母から自分の意思でない叱責を受けるたびに「〜されるかもしれないという恐れのためになんで従わなあかんのやろか」と思っていました。
子どもたちの身に引き起きた変化としては、これまで鍵っ子で習い事もほとんどさせてもらえなかった中、祖父母にプレゼンをして認められれば、享受できるようになりました。
大正・昭和初期生まれの祖父母に納得してもらうためには相当な根気が必要でしたが、「勉強をとにかくして良い学校に入って社会の役に立てるようになりなさい」というスタンスの祖父母だったので、塾や学習教材の多くは手に入りました。逆に阿波踊りや旅行など祖父母にとって遊びと見なされる類は受け入れてもらえませんでした。
またある時、祖母は私たちが母からお小遣いをもらっていないのを嘆き、お小遣い制度を導入してくれました。自習をすると1ページあたり10円でお小遣いをもらえます。中学生からは定額制になり、お小遣い帳をつけて毎月の収支を報告することで翌月のお小遣いがもらえるようになりました。
お金を大切に扱うこと、家計簿をつけることの重要性を祖母から教わったのはありがたい教育であったと思います。
ただ当時の私にとって、祖母からの教えは堅苦しく感じることの方が多く、
「大阪にいたときは貧乏だったけど父母もまだ仲良くいろいろ遊びに行って楽しかったのに、徳島に来たら父母は険悪になるし、自由に遊ぶこともできず、つまらなくなってしまった。お金が満たされても心を満たすことはできないんだ」と思うようになりました。
先の地下鉄サリン事件で「宗教って悪いことなんだろうか?」と思っていた私にとって、お寺の子になることで「宗教とは何か」という問いと向き合うこととなりました。
父は仁和寺での修行を経て、八十八ケ所参りをして、いろいろ見聞を深めたようです。僧侶になったことで、子どもと過ごす時間も増え、子ども向けに法話を分かりやすく伝える本を創作しようとしています。祖父のところには病院では治せない悩みを抱えた人が相談に来て、祖父がその悩みを解いてくれたと感謝されています。祖父に感謝している信者さんが北海道や九州にもいて、旬の美味しいものを贈ってくれます。どうやら宗教というのは一概に悪いものとは言えなさそうだし、私自身もお寺での暮らしを通じて特別な体験をさせてもらっているみたいだ。
この頃の体験談と宗教についての考えを、英語のスピーチコンテストで披露し、優勝できたのは良い思い出です。
宗教という目に見えないものを信じて救われる人がいるということについて。私自身の体験として、苗字が山添から七條に変わったことで、自分の運勢の方向が変わった感覚がありました。山添の時はガキ大将・運動・外向的な機運だったのですが、七條になると優等生・文化・内向的な機運へと変わっていきました。これは目に見えないものの力を信じるきっかけになったと思います。
一方で、人の道を説いて実践するはずのお寺の中では、どろどろの人間関係が展開されていて、「大人は嘘つきだ」「この人たちは本当に仏道を実践するつもりはあるのか」と祖母や両親への嫌悪感が増すことにも繋がっていました。
勉強、部活、友情。社会への眼差し。
中学校では、小学生の時にかじった金管楽器が楽しかったのでその流れでブラスバンド部に入りました。部活で仲良くなったのはゆうちゃん、ゆかり、えり、はるちゃんです。
ゆうちゃんはダイレクトに私の行き過ぎた点を教えてくれる友達でした。印象的なエピソードとして、クラスでの話し合いの折に私が意見を言ったあと、誰も意見を出さなくなるという出来事がありました。
終わった後にゆうちゃんが私に教えてくれたのは、「晶ちゃんの言うことはほんま正しいんよ。でも正し過ぎて、その後誰も意見を出せなくなる。だからもうちょっと自分の影響力を自覚した方がいいと思う」ということ。
ゆうちゃんに「こんなことを私に言ったら嫌われるかも」と言った恐れは全くなく、私を信頼して、嫌なことも敢えて伝えてくれている、というのを感じました。ゆうちゃんの指摘は最もだと思った私は、「クラスでの発言のトーンを優しくしよう」「ここではしばらく意見が出るのを待とう」と意識するようになりました。
ゆかりは「自分の友達は徹底して守る」という人情派。ある時、同級生のとある子が何かの勘違いで私に言いがかりをつけてくることがありました。話が噛み合わず戸惑っていたところ、やりとりをじっと聞いていたゆかりが、「さっきから聞いてたらぐだぐと、あんた結局何が言いたいわけ?晶ちゃんは何も悪いことしてないやん。いいかげんにしーや!」と喝破。
私に言いがかりをつけてきた子はゆかりの剣幕に押され、すごすごと引き下がってしまったのでした。その子には申し訳なかったですが、私に起きた出来事を私以上に怒ってくれるゆかりの情の深さに「こんなに自分のことを思ってくれる友達がいてありがたいなぁ」と感じた出来事でした。
えりはお父さんが婿養子で祖父母と暮らしているという私と似た境遇で、家族に対する悩みに共感し会える友達でした。後に私が結婚に反対されてぐだぐだな恋愛をしていた時に、えりは親の反対を乗り越えて結婚をしていて、私の話をじっくり聞いてくれて、「心で人を見るんよ。そしたら大丈夫やけん」と一言だけアドバイスをくれました。とても心が洗われました。
はるちゃんは、体が大きくて、悲しい出来事があったときに、何も聞かずにぎゅっと抱きしめてくれる包容力のある子でした。私は親に抱きしめられた記憶がほとんど無かったので、こんな愛情表現の仕方をしてくれる人がいるんだと驚きました。初めて抱きしめてくれたときは「晶ちゃん体強ばってるね笑」と言われましたが、段々慣れました。
小学6年生のときは「八方美人」と揶揄されるくらい、ほどほどの距離感で同級生と関わっていた私にとって「心からの気持ちを言葉や態度で表現すること」をゆうちゃん、ゆかり、えり、はるちゃんとの関わりを通じて学んでいく時間となりました。
当時、クラスの人気者グループは運動部に属し、大人しい子たちは文化部に入るという慣習があったようで、ブラスバンド部の友達と過ごしている私を見て、「お前、あんなやつらとつるむなよ」とクラスの子に言われました。
私は外見や表面的な情報だけで人を判断する人がいることに、疑問と憤りを感じました。「将来、こういう人を少しでも減らせる社会が作れるように自分は勉強して偉くなろう」と思いました。
将来の見通しについて、「お金を稼ぎたい」から「社会をよりよくしたい」方向にシフトしていったのがこの頃です。大平光代さんの『だから、あなたも生きぬいて』を読んで、「弁護士の仕事もかっこいいなぁ」なんて考えていました。
この頃一番楽しかったのは、放課後、部活の友達と駐輪場に座り込んで、ハリーポッターの話から道徳の話までいろんな話をすること。家に帰りたくなかったので、門限の6時ギリギリまで学校で粘っていました。
もう一つ楽しかったのは近所にできた学習塾です。学校での授業がつまらなかったこともあり、大学進学を目指したいので通わせてほしいと祖父母に頼んで通わせてもらえることになりました。先生も優しく、塾に通っている友達もみんな楽しくて、たくさん笑ったのを記憶しています。
中学校でも学級委員長、生徒会、ブラスバンド部の部長とリーダー的役割を多く担い、そのまま推薦入試で近くの高校に進学しました。実際の試験の日はインフルエンザで寝込んでいたので良い選択だったと思います。
高校(16~18歳/2002~2005)
勉強と学校行事を楽しむ
進学したのは徳島県立池田高校。母や父方の伯父も通った山の中にある県最西端の高校です。本当はもう少し偏差値の高い隣の学区の高校にチャレンジしたい気持ちもありました。しかし、通学に時間を要するため、私が早起きを母に強いることがますます家庭内の不和を高めるのではと思い諦めました。担任の先生が「鶏口牛後。近くの高校で学校行事も楽しみながらのびのびと過ごす方が晶子には合っていると思う」と言ってくれたのも、後押しになりました。
実際、高校では学校行事を存分に楽しみました。大学進学を目指していたので部活に所属することはせず、朝晩ひたすら受験勉強に励みました。課外活動として、高校1年生の時の担任の先生が流星の観測をコンピューターで行うのを手伝ってみたり、紺色のソックスを履きたいがために生徒会に所属して校則改正運動を繰り広げてみたり、と言ったことはありましたが、最も時間を費やしたのは勉強でした。
勉強さえしていれば祖母から何も文句を言われないので、勉強に逃げていた側面もあったと思います。当時当たり前の慣習となりつつあった「高校への進学を機に携帯電話を買い与えてもらう」のは、我が家の場合、祖父母がいたので無理でした。どの携帯キャリアが良いか、どれくらいの経済負担になるか算出した比較表を作り、祖父母にプレゼンをし、試験で学年1位を3回取ることで、携帯電話の保持が許されました。高校2年生の時でした。
高校の時に仲が良かったのは、中学の部活から仲良しだったゆうちゃんとゆかり。汽車の通学で一緒になったかよちゃん。さらにクラスでまみちゃんという友達が増えました。まみちゃんとは高校2・3年の2年間で交換ノートを20冊やりとりする仲となりました。
とっぴぃという今に続くあだ名をつけてくれたのもまみちゃんです。私たちは「女子高生にしかできないことをしよう」というのを合言葉に授業をサボってカラオケに行ってみたり、夜の学校に忍び込んでみたり、線路をまたいでみたり、アホなことをたくさんしました。高校では彼氏もできて、青春時代を存分に楽しんだと思います。
センター試験を週末に控えたある朝、父母の喧嘩が最高潮に達し、ついに父が母を殴りました。弟が制止してくれてその喧嘩は収まったものの、漫画みたいに目に青あざを作っている母を見て、「まじで早くこの家から出ていってやる。法学部で親との縁の切り方を学ぶんだ」と意気込んでいました。
格差への憤りからの進路選択
当時の私は自らが体感した都市と地域の格差と合わせて、世界の先進国と途上国の格差も気になっていました。
「日本の都市と過疎地域・先進国と途上国、これらは相似関係にあるのではないか?」「なぜ発展する場所とそうでない場所があるのか?」
都市近郊と過疎地域の両方の生活を体験し、経済・政治・教育・メディアとあらゆる側面において過疎地域が不利におかれていると感じた私は「その謎を解き明かしたい。ひいては私を苦しめているその構造を破壊したい」と強く憤っていました。
その謎解きが叶いそうな法制度と政治学の両方を学べる法学部を設置しているのが名古屋大学でした。前期試験に先立ち、センター推薦の試験があるということを進学情報の冊子で知り、出願しました。それまでは神戸大学や大阪大学への進学を想定して勉強してきたのですが、実際に各大学のキャンパスの見学をしてみて、校風が一番自由そうでいいなと思いました。ちょうど、愛・地球博の準備中で名古屋の経済が盛り上がっている機運を感じたのも決め手でした。
自らの生い立ちを経て形成された問題意識と解き明かしたい問いについて面接の場で話したところ、無事に合格しました。入学後、同じようにセンター推薦で入った友達に聞く限り、センター試験の点数自体は下の方だったようです。生徒会やスピーチコンテストの経験を通じて人前で話すことに慣れていたこともあり、面接に堂々と臨めたことは自信となりました。
大学(19~22歳/2005~2009)
思うがままに課外活動に飛び込む
無事に名古屋で一人暮らしをスタートすることができました。よかったのは実家から離れていること。神戸大学だと親が日帰りで来れてしまいます。しかも女子寮に入れられそうになっていました。絶対いやだと思いました。
学部の最初のクラスで出会ったのが中高で通っていた塾の模試の上位ランキングの常連で、私が中学のときからひたすら目標としていたもずです。なんと大学で同じクラスになれるなんて!しかも、下宿先も近かったのです。
もずを中心にたくみ、わだちん、かぶ、しげといったメンズグループと遊ぶようになりました。昼間はカラオケとゲーセン、夜は居酒屋とバーをはしごし、夜中は誰かの家に集まってウイイレとスマブラ。という日々を過ごしました。おかげで1限目の授業にはまず間に合いません。
授業に出る仲間のゆりえちゃん、ゆきちゃん、あやちゃんにはいつもノートを借りていました。テスト前にはもずたちと集まり、それぞれが得意な科目の想定問題をレクチャーし合って乗り切るという、授業での座学よりも友達との遊びを重視した学生生活でした。
中高時代はかなり閉塞した時間を過ごしていたので、大学生活で羽を伸ばせたのは今振り返っても本当によかったと思います。
「今までは狭い世界に生きてたから、たくさんの人と知り合いになって見聞を広めるぞ!」という意気込みで授業はそこそこに課外活動に精を出しました。
まず参加したのが大学祭の実行委員会。総勢300名からなる大所帯で、組織の作り方や動き方を学びました。50年近く続く組織で、大学という公的機関と連携しながら学祭を運営する役柄ということもあり、マニュアルでの引き継ぎやルールに基づく組織運営が徹底していました。2年間所属してみて、1,000万円規模の予算を円単位で管理することも経験させてもらい、「大企業は合わないな」と思ったのも良い経験でした。
次に参加したのは「学生のための政策立案コンテストGEIL2006」。学祭の実行委員を卒業し、「学外も見てみたい」と思って参加した1週間の宿泊型イベントです。人生で初めて東京の地に足を踏み入れたのもこのときです。
その時、「東京の学生団体は民間企業や自治体をも巻き込んでイベントを運営している」ということに衝撃を受けました。このイベントで出会った仲間とは今も数名と付き合いがあり、皆各界で活躍している様子を見ては「私も頑張ろう」という気持ちになっています。
大学3年生。成人すると、保護者の許可を得ずに行動できることが増えたため、ワークスアプリケーションズのインターン(マンスリーマンションを借りて大阪で暮らせたのも楽しかった!)や人生初の海外旅行となるウズベキスタンへの研修旅行など、ますます思うがままにチャレンジするようになりました。
バイトでは結婚式の二次会の幹事代行業の会社に入り、披露宴や二次会の司会を担当させてもらいました。そこで姉貴分と言えるめぐさんと出会いました。めぐさんは16歳の時に結婚して出産、今は3度目の結婚をして、2人のお子さんはすでに独立しています。私との年齢差はたった3歳なのに、いろんな人生の歩み方があるんだということを今も学ばせてもらっています。
大学最後の年はフランスに留学することを決めました。留学までの数ヶ月を、これまでの課外活動で得た学びをアウトプットしようと大学近くの商店街を巻き込んでのお祭りを企画・運営しました。企業から協賛を得て、お寺の土地をお借りし、フリーマーケットとライブのイベントを開くというものです。8月の炎天下にも関わらず、多くの友達や大人たちが力を貸してくれて無事にイベントを終えることができました。
フランスでの楽しくて自由な日々
9月にフランスでの留学生活がスタートしました。留学中は大学の寮で暮らし、ドイツ、トルコ、ナイジェリア、モロッコ、コスタリカなど世界中から留学してきている友達と映画を見たり、お互いの国の料理を披露し合ったり、楽しく過ごしました。
フランスの人たちは金曜になると週末に気持ちが向かうのかそわそわし始めてほとんど働きません。日曜はスーパーもお店も閉まっています。学生も日本の学生みたいに金銭的な理由でアルバイトをする必要はなく、週末は近くの実家に帰ってゆっくり過ごしています。これで労働生産性も食料自給率も出生率も日本より高いのだから本当に豊かな国だなと思いました。
私も週末は友達と自転車でドイツの森にある遊歩道を巡り、ライン川沿いの芝生でビールを飲んでまったり過ごしました。
日本での「気づいたら夜中の2時で締めのラーメン食べてた」みたいな週末とは違い、時間がゆっくりと流れていきました。「『風土』で和辻哲郎が言ってたのはこういうことか!」と、土地の気候が育む精神性との違いに納得しました。
なんでもきっちりかっちりするのではなく、時にはゆるくてもよいのかもしれないと思ったのが一番の学びです。
当時のフランスはニコラ・サルコジ政権下でストライキによる休校が相次いでいました。休校のお知らせを得ると、ここぞとばかりに周辺諸国に旅行に出かけました。ルクセンブルク、ドイツ、ベルギー、スペイン、ポルトガル、イタリア、イギリスとお小遣いの許す限り回りました。
印象的なのはアイルランドで知り合ったインド人のお兄さんに連れていってもらった町外れの小さな山です。1時間ほどハイキングすると、頂上に到達し、岩肌が見える山の先に海が広がり、草原にひつじの群れがちらほらいる「まさにヨーロッパの山!」といった絵に描いたような景色を見て、「私は今、本当に自由なんだ」と涙が出ました。山を下り、パブでギネスビールを片手にアイルランド民謡に身を任せてのダンスも楽しかったです。
7ヶ月という短い期間ではあったものの、帰国して内定していたウィル・シードに顔を出したところ、「こんなに丸いやつを採った覚えはない。もっとシャープだったろ〜」と先輩に言われるくらい、身も心も丸くなりました。
ウィル・シード(22~26歳/2009~2013)
楽しいルームシェア生活と職場での洗礼
就職を機に上京して、ワークスアプリケーションズのインターンで出会ったももとルームシェア生活をスタートしました。途中から早大生のもなおも加わり、女子3人で暮らしました。ももは大阪出身、もなおは和歌山出身で、みんな関西のノリで過ごせるのも気楽でした。週末はそれぞれの友達を家に招いて鍋パーティーをしたり、お互いの誕生日を盛大に祝いあったり、「Sex and the Cityみたいやね」とキャッキャ言いながら過ごしていました。
初めての東京で、もし1人で暮らしていたらきっと寂しかったと思います。本当にももともなおが居てくれてよかったです。
ウィル・シードに入るきっかけは、当時「キャリアカフェ」というイベントを主催していた海前さんが代表の船橋さんを紹介してくれたことでした。
大学入学時に私が抱いていた問い 「日本の都市と過疎地域・先進国と途上国、これらは相似関係にあるのではないか?」「なぜ発展する場所とそうでない場所があるのか?」について、大学4年間で出した答えは、「教育と経済がうまく回っているところでは紛争も貧困もない」 ということでした。
船橋さんの話を聞いて、ウィル・シードは「教育を通じてよりよい世の中をミッションに子どもから大人まで体験型のプログラムを提供している会社である」ということが分かりました。ベンチャー企業の社長さんというと、ギラギラしている印象の方が多かったのですが、船橋さんはそのギラギラ感が無いのも安心しました。お互い4人兄弟の中で育ったという共通点もあり話は盛り上がりました。
「とりあえず、うちで5年修行してみたら?」 という船橋さんの提案を受け、入社を決めました。その時、入社して具体的に何をすることになるのかは全く想像がついていませんでした。
入社して最初の仕事は、各社の新人研修にアテンドすること。そこでプログラム内容を理解しつつ、講師のプログラム運営をサポートしました。ビジネスマナーの模範として立ち居振る舞うことが求められ、かなり緊張しました。
先輩方は教育業界への熱い思いを抱いて転職してきた人たちばかりだったので、新人である私たちに猛烈なフィードバックを浴びせてくれました。悪気はなかったでしょうけれど、かなりきつかったです。未だにビジネスメールを作成する時はドキドキします。
天下無双合宿と朝活と
怒涛のように日々は過ぎ、気づけば社会人2年目となっていた春。ワークスアプリケーションズのインターン仲間である前やんとかんじと近況報告のお茶会をしていました。そこで行き着いた3人の危機感は「俺たち、まじ家と会社の往復で何も残ってないんちゃう?」という焦りでした。
たしかに、上京した春に3人で新卒対象に飲み会を開いた時に100人を超える人が集まりました。
「彼らはどこへいってしまったのだろうか?あの飲み会は幻だったのだろうか?あの熱気はいずこへ?」「このままでは気づいたら3年、5年経ってしまう…」
そう思った私たちは「一生物になる繋がりを作ろう」と合宿を企画しました。
その名も天下無双合宿。
それぞれが5人ずつ大切な仲間を連れてきて15人で合宿をしました。
「今は何をしていて、将来何をしていきたいと思っているのか。そのためにこの繋がりで何かできることはあるか。」
そんなことを夜通し語り明かしました。幹事役をバトンパスして、参加者を広げ、この合宿は毎年7月・1月の連休に開催されるようになり、13回続きました。
ここからいろんな出会いと別れが生まれ、関わった人の人生の彩りになっていたらなと心から思います。 実際、私自身は転職・結婚・子育てと節目節目でこのコミュニティに支えられているなと感じる今日この頃です。やってよかったです。
合宿の企画とは別に、会社と家の往復の毎日を変えるために個人としても何かできることはないかと考えていたとき、船橋さんが「ダボスのリーダーたちは朝に集まってるよ、忙しい人でも朝なら捕まるからね。」と教えてくれました。
そこで、毎朝山手線の東京〜新宿のどこかの駅で人と会って1時間話をするという朝活を始めました。いろんな業界で働く人の仕事上での悩みを聞くことが、お客様に研修を提案する際にも生きるかもしれないとも思いました。
その朝活で初対面の時には互いに「合わないな」と思っていたいちろーとぐっと仲良くなり、今も仲良くしているみっこやまなさんとも知り合うことができました。
会社の先輩方からは「よくそんな活動するエネルギーが湧いてくるね」と言われており、当時は「先輩の年齢になっても私は今くらい活動しますよ」と思っていました。いざ、先輩方の年齢になったら、お気持ちがよく分かりました。20代前半のエネルギーというのは独特のものがあると思います。
実家との冷戦開始と転職
その頃、東京での暮らしがあまりに濃密で楽しく、ほとんど実家に帰ることをしなくなっていました。帰ったところで、祖父母から父母への愚痴を聞かされ、母から祖父母や父への愚痴を聞かされるだけなのでなるべく避けていたというのが実際です。
社会人5年目になり、グローバル人材育成の新規事業立ち上げにも忙しい毎日を送っていた頃のことです。連絡が疎遠になっている私を怪しんだ祖母の指令を受け、母がいきなり家に押しかけてきました。
当時結婚を前提にお付き合いをしていた彼と同棲をしていたのが明るみになり、「結婚は断じて許さない」ということを言われるようになりました。さらには祖父母から「ここのお寺の次男坊が見合いをしたいそうなのだがどうか」といった嫌がらせのようなコミュニケーションもありました。
私は精神的に追い詰められて、仕事を休むことになりました。ちょうど、社長の船橋さんが次の事業(後のトビタテ留学JAPAN)を始めると言って社長を辞めたタイミングでもありました。 私もそのまま会社を辞め、休息期間を取ることにしました。
休暇の間は、WWOOFで南伊豆のカレー屋さんや和歌山のみかん農家さんにショートステイしたり、東南アジアに旅行に行ったりと思うままに過ごしました。 そうこうしているうちに船橋さんから「リーダーシップに興味ある?ISLというNPOがあるんだけど」と紹介をいただき、ISLを訪れました。
ISL・至善館(26~30歳/2013~2018)
ウィル・シードからISLへのギャップ
ISLでは大学時代からの友人が働いていて、「こんな仕事をしているんだよ」と社会イノベーター公志園のことを教えてくれました。 ISLのメインの事業は経営者リーダー育成の教育機関であり、その他にも東北の復興支援のためのリーダー育成塾を運営しているとのことでした。
順番に中で働く人の話を聞いて、本質的な事業が多岐にわたっており、みなさんが私服で働いているのがいいなと思いました。
ウィル・シードで大企業向けに新人研修をしても、数年経ったら会社に染まってみんな硬直化してしまうことを残念に思っていた中、リーダー層にアプローチすると何か変わるのかもしれないという予感を感じたのも決め手でした。
入社したい意向を伝えると、「9月27日に社会イノベーター公志園が開会するので、すぐに入社してほしい」と言われ、流されるままに入社しました。入社したら友人はいなくなっていて、「あーここもハードな職場なのか。まぁ、やれるだけやってみるか」と思いました。
ウィル・シードが男性的・合理的な職場だとすると、ISLは女性的・情緒的な職場で、コミュニケーションのスタイルも意思決定も全く違います。
メールを端的に書くと「君のメールには感情がない」と指摘され、一度決定したかに見えた意思決定は「やはりこうした方がよい」と直前でひっくり返りました。最初は、その非合理性に戸惑いを覚えましたが、最終的に提供されるプログラムの質の高さや人々に引き起きる変容を見ると、納得せざるを得ませんでした。
また、対象を経営者層に絞った上でプログラムの質を担保することで、ほとんどの企業がリピートで次の幹部候補生を派遣してくださっていたのです。営業コストが格段に抑えられていたのも、前職のビジネスモデルとの大きな違いでした。前職で、受注したとしてもお客様に飽きられたら次は継続してもらえるか分からないラットレースのような営業の仕事に辟易していた身としても、プログラムの内容づくりに注力できるのはありがたいことだと感じました。
その他の変化として、ウィル・シードでは営業という職業柄、スーツとヒールだったのですが、ISLでは服装は自由でした。経営者育成プログラムの運営にふさわしい品位のある格好を期待されつつも自由に選択できました。それだけで体がかなりリラックスして伸び伸びと働ける気がしました。
朝の出社も9時が目安で、多少遅くなっても咎められたりすることはなく、前日の仕事で疲れている中、無理矢理早起きしなくて良いのが私には合っていたようです。転職時、13号のサイズまで太っていた私は、気づけば大学入学時の9号の服が着れるまで戻りました。
社会イノベーター公志園の運営が終わると、続いて、経営者リーダー育成プログラムの運営の仕事を担うようになりました。毎週プログラムの運営があり、早朝から夜遅くまで立ちっぱなしで、コーヒーを出し、ビデオカメラを回し、配布資料を印刷し配って過ごす毎日。かなりハードでしたが、そこで展開される社会の叡智を結集したような講師陣のお話はどれも心動かされる内容ばかりでした。
プログラムの受講者に課す課題図書も重厚なものばかりで、それらを全部読みこなしながらプログラムを運営するのはハードでしたが、「20代はとにかく働く」と決めていたのでそこまで苦には感じませんでした。
また、友達とルームシェアをしていたので、休日はみんなでパーティーをしたり、AirbnbやCouchSurfingで海外旅行客を受け入れていろんな世界の話を聞いたりできていたのが良い息抜きになっていました。
至善館の立ち上げから妊娠発覚まで
2016年、至善館という社会人向け大学院を立ち上げる構想がいよいよ本格化し、その立ち上げメンバーとしてアサインされることになりました。実は、プロジェクトリーダーの方のコミュニケーションスタイルが厳しいもので、多くの人が辞めていってしまっていました。
私にとって、周りから「厳しい」と評されるタイプの方とのコミュニケーションは全く苦ではありませんでした。なぜなら、家庭内での祖母や母とのコミュニケーションの方がより辛辣で避け難いものであったからです。結果、プロジェクトリーダーの方からは、時にお叱りを受けながらも大半は和やかに大学院の設置認可に向けての動きを推進することができました。
大学院の設置認可に向けては、文科省とのやりとりを密に行う必要があります。ここで官僚的な手続きの硬直さや制度の不自由さに直面しました。個人としては魅力的な人も、その制度の枠組みの中ではコミュニケーションが固くなり、一つ一つを裁決する立場としての関わり方しかできません。このような枠組みの中で社会制度や公的機関が営まれているのだとすると、誰も幸せにはなれないのでは、という憤りも感じました。
至善館は既存のビジネススクールのあり方に疑義を呈するビジネススクールです。従い、カリキュラム内容も運営形式も、既存の「ビジネススクール」「大学院」と定義されるものの枠組みから大きく逸脱しているように官僚の方々には映ったようです。既存の枠組みに沿うように説明・調整することで、認可の知らせを得たときには、ほっとしました。
私は「ISLの魅力的なプログラムをより広く一般に届けられるかもしれない」という思いで至善館設立に邁進してきましたが、プログラム主宰者であり代表の野田さんが権限委譲をすることは難しいように思われました。なぜなら、権限委譲をすることで、プログラムの完成度も下がってしまうからです。私はISLのことを「教育界のスタジオジブリ」と例えますが、宮崎駿監督にしか作れない作品があるように、野田さんにしか作れないプログラムがあります。そこに矛盾と限界を感じました。
また、至善館が開校した暁には人の変化する瞬間にダイレクトに立ち会えるプログラム運営の現場に戻れると思っていたのですが、人員繰りを鑑みると私がしばらくバックオフィス周りを担わなければならないことが明らかでした。
開学に向けてはオールラウンダーとして経理・総務周りも担っていましたが、本来、それは私自身が好きであったり得意とする領域ではありません。私にとって「得意でも好きでもないけれど、他の人よりはこなせる」という類の仕事が増えていくことに虚しさを感じていました。
退職の意向を伝え、「他のプロジェクトにアサインするから残ってほしい」と引き留めにあっていたころ、想定外の妊娠が発覚しました。
大学院開学を控えた中での妊娠を報告したことで、プロジェクトリーダーとの関係は悪化しました。「あなた大丈夫なの?正気?」と言われたのが印象的で、それを周りで聞いていた同僚は「あなたの子どもを守れるのはあなただけなんだから無理はしないで」と励ましてくれました。
つわりもあり、妊娠期間中はこれまでのように長時間での勤務ができなくなったことを受け、「職位を下げて給与も下げるのはどうか」と言った提案もいただきましたが私にとってそれは魅力的なオファーではありませんでした。
思えば、「もうその働き方は辞めた方が良いよ」というサインだったのだと思います。
結婚・出産・新しい仕事(31~34歳/2018~2021)
結婚・出産と実家との確執
30歳の春、6年間お付き合いしていた彼から別れを告げられました。
私の実家から結婚への同意が得られなかったことで、うやむやに時間が過ぎてしまっていたのが大きな要因です。仕事が楽しかったこともあり「結婚とか出産とかあんまイメージが沸かない」とも思っていました。
両親との関係について向き合うことから逃げていた私に彼が愛想を尽かした側面もありました。
そこから、流れるように浮ついた恋を繰り返し、仕事とお酒に溺れる日々を過ごしていた中、たどり着いたのが今の夫のなりさんです。
どれくらい仕事とお酒に溺れていたかというと、23時頃に帰宅してからワインを1本明けて、9時くらいに二日酔い気味で出社するという日々でした。エノテカとヨナヨナエールの定期配送会員になって、ワインとビールを部屋に常備していました。
前の彼の結婚への同意をもらえなかった理由が、「大学が微妙、仕事がよくわからない、シングルマザー家庭」といった形式ばったものだったのですが、その条件で比類するならば「大学も仕事もよく分からない、母親は韓国人で産みの父親の方は結婚詐欺師(!?)」というなりさんとの結婚を私の親は認めました。祖父が失くなり、祖母も高齢となり、さすがに結婚を認めざるを得なかったのでしょう。
そのことに、私は「あの結婚反対は何だったんだ。20代後半の私の人生を返せ」とますます両親への不信感を募らせました。
そのような親の下で里帰り出産をするなどという選択肢は私には毛頭ありませんでした。東京では大学生の妹も一緒に暮らしており、義母が近くに住んでいることもあり、大変よくしてくれたので、東京の病院で出産と産後の生活を行うことにしました。
出産前は仕事を辞めたこともあり、ゆっくり過ごすことができました。美術鑑賞、バレエ鑑賞、美味しいレストランでの食事と、「独り身でできることを今のうちにやっておこう」と思う存分に気ままに過ごしました。本当に幸せなひとときでした。
いよいよ出産を迎えても、「あんな親に子どもを抱かせたくない」と私は母に連絡をせず、勝手に母が病院まで押しかけて様子を見にくる始末でした。
娘の名前は乃柚(のゆ)。予定日の前日に頃合いのサイズで生まれてきてくれました。分娩もスムーズに行き、乃柚ちゃんは健康で、育児のスタートは順調に見えたさなか、私は乳腺炎に悩まされることになったのです。
どんどん母乳が精製されるけれど、小さな乃柚ちゃんでは飲み切ることができない。私は熱が出て、乳腺を詰まらせるからと年末年始の美味しいご馳走も食べることができない。なりさんは一緒に育休を取ったはずなのに打ち合わせだと言って外に出ていく。どんどんストレスが溜まっていきました。
後から知りましたが、母も叔母も産後の乳腺炎に悩まされたそうで、あの時母に相談できていたら、もっと早くに解決できたはずです。けれどもその当時の私は「母には頼らずに自分達だけでやっていくんだ」と突っ張っていましたので、ますます症状は悪化するばかりでした。結局、母乳を止める薬を飲み、乳腺に溜まった膿を手術で切除して出し切ることで乳腺炎を治療することとなりました。こうして私の母乳育児は強制終了となりました。
母と和解からのライフシフト
ある時、母に対して反発ばかりしている自分を見て、「この姿を乃柚ちゃんに見せるのはさすがにかっこ悪い」と思いました。ようやく母との関係に向き合う覚悟ができたのです。
その時、友達が受講しているコミュニケーションの研修が良いかもしれないということで、夫婦で受講することを決めました。
実際に研修を受けてみて、今までの私は、両親のことを「あんな風にはなりたくない」という風に受け止めていたのに気づきました。何を言われても反発していたのはそのためだったのです。そして、その受け止め方が形成されたのが祖父母の「あんな風になるんじゃないよ」という言葉であったことにも気づきました。
構造と原因が分かったならば解決は早いです。すぐに母に今までの反発した態度について、謝りました。母からも「あなたが長女だからと言って厳しいことばっかり言ってごめん」と謝罪がありました。「なぜ前の彼氏との結婚はだめで、なりさんとの結婚は認めてくれたのか」ということについても、条件の話ではなく、「なりさんのご両親が私のことを本当に大切にしてくれるというのを見て安心したからだ」ということが分かりました。
20年近く逃げ続けてきた両親との関係への向き合い方がシフトしたことで、いろんなことの見え方が変わってきました。
「私は子どもの教育に関わりたいと思っていたのに社会人教育ばかりしてきたのは、親と仲が悪い自分なんかが子どもの教育に携われるわけがないと諦めてきたんだ」
「今まで反発してきた上司の存在も、父や母との関係性みたいだったのかもしれない」
「もっと自由にのびのびと自分のあるがまま、したいがままを選択してもよいのかも」
そんな風に思えるようになりました。これまでは「周囲に承認されるために一つの会社でどっぷりとなんでも必要とされる役割をこなすことをしてきた」のを手放し、ここからは「自分が本当にやりたいことを役割として活かしてくれる仕事だけをしていこう」と決めました。
そんな話をこれまで出会った人に分かち合う中で、
こんまり®︎メソッドという片づけ法をより多くの人に届けるお仕事
トビタテ留学JAPANという留学体験から帰ってきた若者の学び合いを促進するお仕事
経営者にスピーチライティングの技術を届けるお仕事
と出会うことができました。
こんまり®︎メソッドについては、朝活をしていたときに出会ったまなさんとのご縁が。
トビタテ留学JAPANについては、新卒でお世話になった船橋さんとのご縁が。
スピーチライティングについては、新卒時代にお手伝いした国際問題勉強会で出会ったしげさんとのご縁が。
20代の時に紡いできたご縁がこうやって今のお仕事となって自分自身を導いてくれていることに、「ただただがむしゃらにやってきたことも決して悪いことではなかった」と肯定的に捉え直すことができるようになりました。
子育てについても「土のあるところで子育てをしたい」というイメージが湧いてきて、いろんな方にお話をお伺いする中で、長野県の軽井沢エリアが良いのではというご縁に至りました。
出産後、のびのびとやりたいことをやろうと思い描いた結果、1ヶ月間のヨーロッパへの新婚旅行と結婚披露宴を実現できたのはとても良い体験でした。
2020年に軽井沢で頃合いの土地を購入し、家の建築計画を進めていたところ、2021年にコロナウイルス対策を起点とする移住ラッシュ・ウッドショックが起きて建築計画が滞ってしまいました。
また、台東区で巡り合った地域密着型の保育施設に当選したこともあり、乃柚ちゃんが2歳となるまでは台東区で暮らすこととなりました。保育園の帰りに遊びに行った児童館で出会った、たまちゃん・きみしー・れいくん一家とは家族ぐるみの仲となり、休みの折に一緒に旅行に出かけたり、年越しを一緒に過ごしたりしています。
今となっては、台東区で保育園が当選し、お家の建築計画が滞ったのは、たまちゃんたちと出会うためだったのかもしれないと思っています。
移住〜現在(35~37歳/2022~2024)
暮らしへの興味関心の再燃
いよいよ、乃柚ちゃんが年少さんになるタイミングで軽井沢へ引っ越すことにしました。
いざ暮らし始めてみると、軽井沢駅周辺は自然の多い東京といった感じでサービスや商品の価格も利用する人も関東圏の人が中心となっていました。
また、夏は涼しくて良いのですが、通年で過ごした際の日照時間の少なさや霧の多さが気になりました。
そこで、軽井沢で購入していた土地を一旦手放し、もう少し日当たりの良さそうなエリアで再度土地を探すことにしました。不思議なもので、手放してすぐ、頃合いの土地と巡り合うことができました。
こうして新たに家づくりの計画をスタートし、2023年にお家が完成して引っ越しが叶いました。
幼少期、2LDKの小さな団地のスペースで、母は5人分の家族のものをうまく収めようといろんな家具・収納にまつわる主婦向けの雑誌を読んでは工夫を凝らしていました。母の趣味は模様替えと言っても過言ではないと思います。
「家に帰ったら、毎月の様に模様替えをしてるんや。あんな狭いスペースで。びっくりや」と父はその当時の様子を振り返ります。
母が読んでいる雑誌を私も読みながら、「こんな間取りの家に住みたいな、こんな家具を置きたいな」という思いを抱いていました。
子どもの時はくみちゃんと「将来は同じマンションに住んでこんな暮らしをしようや」みたいな話をよくしていたものです。
高校の時にはまみちゃんとの交換ノートで理想の間取りについて話をしていました。実際には高校生の私たちが思い描いた理想の間取りを東京で実現するには家賃が20万ほど必要でした。想定が甘かったです(笑)
子どもの頃に思い描いた暮らしをついに実現できている。そのことがとてもありがたく幸せです。さらにはチームこんまりでのお仕事を通じて、その暮らしに磨きをかけられることも。まさかこのような形でお仕事と暮らしが繋がる日が来ることは想像していませんでした。
暮らしに目を向けるようになると、旬の食べ物や季節ごとの慣習にも関心が高まります。乃柚ちゃんが保育園でいろんな季節の行事を体験させてもらい、その話を聞くこともその一助となっています。そして、実家では当たり前に行っていた慣習が、名古屋・東京での暮らしですっかり抜け落ちていたことに気づきました。
それぞれの慣習の成り立ちや意図を子どもに問われた時に明快に説明できるだろうか?
もちろん、母や祖母から伝え聞いたものもあります。でも、もっと知りたい。そう思うと日本の歴史や成り立ちについても関心を持たざるをえません。幸いにも今はいろいろなソースで学ぶことができる時代です。
私たちの暮らしを成り立たせているものは一体何なのか?
言葉・衣食住・歴史・政治経済といった人ならではの営みを俯瞰することがもっぱらの関心事です。
ここまで、自分自身の人生を振り返ってみたときに、多くの繋がりに支えられて今があること。そして今も多くの繋がりに癒され、満たされている自分がいます。
この幸せを少しでも多くの人と分かち合えたらと思います。
これからの仕事と働き方について
出産を機に独立したことで、いろんなプロジェクトに携わる機会を得ることができました。これまでの経歴から教育サービスの事業に携わることが多かったのですが、その中で気づいたことがあります。
教育事業をド直球で扱っている起業家の事業立ち上げの動機は、自らの人生における挫折やトラウマを克服するためであることが多いこと。
そしてその起業家なり経営リーダーが挫折やトラウマを乗り越え、克服のループを抜け出している場合には、愛に溢れる組織運営が実現します。そうでない場合には、組織文化に与える影響がかなり痛々しいものになる。ということです。
小さな組織であればあるほど、経営者のメンタルモデルがそのままダイレクトに組織文化に反映されます。その人が心からメンバーを信頼して仕事を任せられるかどうかは、両親や兄弟との関係性が健全で良好なものか、はたまた幼少期の悲しい体験を受容して、俯瞰できているかどうかが大きく影響しているのです。
私は、卓越したコンテンツをより多くの人に届けることで、世の中に役立ちたいと思っています。
自分が心から美しいと思うコンテンツや枠組み、それらをより多くの人に届けることで、その領域にパラダイムシフトが起きるかどうか。
ウィル・シードは研修を座学から体験型へ
至善館はビジネススクールを利益重視から公益重視へ
トビタテは留学を個で完結するものからコミュニティで創発するものへ
こんまりは片づけを苦手なものから楽しいものへ
組織文化に大きな影響力を持つ経営者はもちろんのこと、共に働く人(ひいては共に生きる人)とは、互いのメンタルモデルやそれが形成された背景を分かち合える関係性でありたいと思います。
こんな長文をここまで読んでくださった方、本当に関心を持ってくださって、ありがとうございます。
人生のどこかでご一緒できることを楽しみにしています。
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