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『「介護時間」の光景』(116)「踏切」「会議室」。7.5.

 いつも読んでいただいている方は、ありがとうございます。
 そのおかげで、こうして書き続けることができています。

 初めて、読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。


「介護時間」の光景

 この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。

 それは、とても個人的なことで、断片的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。

 今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2002年7月5日」のことです。終盤に、今日、「2022年7月5日」のことを書いています。



(※ この『「介護時間」の光景』シリーズでは、特に前半部分の過去の文章は、その時のメモと、その時の気持ちが書かれています。希望も出口も見えない状況で書いているので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば幸いです)


2002年の頃

 1999年から母親の介護を始めて、その途中で、私自身も心臓発作を起こしたこともあり、仕事をやめ、義母の介護も始まりつつあり、2000年の夏には母親に入院してもらいました。

 私は、毎日のように2時間ほどかけて、母の病室へ通っていました。帰ってきてから義母の介護をする日々でした。ただ、それだけを続けていました。

 自分が、母の病院に通っても、医学的にプラスかどうかは分かりませんでした。でも、通わなくなって、二度とコミュニケーションが取れなくなったままになったら、と思うと、怖さもあって、通い続けていました。

 この病院に来る前、別の病院の医療関係者にかなりの負担をかけられていたこともあり、やや大げさに言えば、白衣に、怖さすら感じていました。

 そういう気持ちは、新しい病院に移り、1年半経って、少しずつ病院を信頼するように変わっていたのかもしれません。そのため、微妙ですが、気持ちに余裕ができたせいか、病院に行く頻度が少し減っていました。

 そのころの記憶です。

2002年7月5日

 この年は、地元の福祉協議会が主催するヘルパー(訪問介護員)の研修を受け、資格を取得しようとしていた。

 冬から始まって、最初に3級、続けて2級の講座が続いた。そこで知り合った人と、話す機会も増えて、介護を始めてから初めて社会と接しているような気持ちになれた。

 母の入院する病院への信頼感が少しずつ増したし、母の症状が安定したこともあって、病院へ通うのを休む日も増えた。

 7月3日には、病院へ行ったけれど、7月4日は休んだ。7月5日もヘルパーの講座には行ったけれど、そこから病院には行かず、家に帰ってきた。

 それでも、疲れが抜けた感じはしなかった。


踏み切り

 最寄り駅の踏み切りを渡っていると、100メートルくらい向こうの踏み切りでも黒い日傘をさした中年らしき女性が歩いていた。

 さらに遠くの奥には、空が妙に黒く曇ってきている。

 女性の歩くスピードと、自分が渡るスピードが変に一致していた。

会議室

 ヘルパーの授業。かなり古い会議室のようなところ。3階。
 休憩時間。四角い窓にブラインドがかかっている。

 新しさとか、しゃれているとか、そういう要素がまったくない窓際にパイプイスが並ぶ。外は、線路が何本かカーブを描いているのが見え、その奥には古くからの工場らしき建物がある。

 何の情緒もない光景が、そのためにかえってカッコ良く見える。

                          (2002年7月5日)


 この生活は続き、2004年に母はガンになり、手術もし、一時期は落ち着いていたが、翌年に再発してしまった。そして、2007年に母が病院で亡くなり、「通い介護」が終わった。

 義母の在宅介護は続いていたが、臨床心理学の勉強を始め、2010年に大学院に入学し、2014年には臨床心理士の資格を取得し、その年に、介護者相談も始めることができた。

 2018年12月には、義母が103歳で亡くなり、19年間の介護生活も突然終わった。昼夜逆転のリズムが少し修正できた頃、コロナ禍になった。


2022年7月5日

   大きい封筒がポストに入っていた。

 先日、出版社に、介護者の心理と支援を中心テーマにした本を出したいです、という企画書を送った。それは、6項目にわたって、A4で16枚だけど、今回は、そこにつけた名刺と一緒に戻ってきた。

 そこには断りの言葉があって、こうして反応があるだけ有難いが、かなり強い拒絶のようにも思えて、なんだかガッカリもしたし、これから先も、永遠に出版の機会は訪れないように思った。

 場合によっては、出版の企画は断られながらも、アドバイスをもらえることがあり、そのことによって、企画書を練り直したりもするのだけど、それでも、結局のところは、拒否される。

 大学院を修了する際に、その時の修士論文を、一般書にすることを勧められてから、もう10年近くも経つ。それから、特に家族介護者への理解は、ずっとすすんでいなくて、だから、きちんと形にしたいと思って、出版社に企画書を送り続けている。でも、本当にただ無駄なことをしているような気持ちになることがある。

 何をやっているのだろう。
 無力感だけが強くな

台風

 たぶん、季節としては早めで、最初は、自分が住んでいる地域には来ないと思っていた台風が、急激に右に曲がって、どうやら近づいてきて、だから今週は雨が多くなるらしい。

 朝起きたら、すでに妻が洗濯を済ませてくれていて、それは、午前中から雨が降り始めるのに、汗をかいた服が多いから、それだけでも洗ってくれていて、干してあった。

 申し訳ないのだけど、ありがたい。

 それから、予定よりも雨が降り始める時刻は遅くなって、もしかしたら、このまま天気予報を乗り越えるように、曇りがちといっても、雨が降らずに乗り切れるのではないかと、ちょっと思い始めた午後2時ごろに、空の様子を見ようと思って、庭に出たら、音がし始めた。

 ぽつ、ぽつ、ぽつ。

 小さな少し乾いた音が響き始める。

 そばにある植物の葉っぱに、降り始めた雨粒が当たっている、ただの物理的な現象なのだろうけど、それは、天気の変化の境目立ち会う偶然のようなことを思わせる。それでも、とにかく、洗濯物を部屋の中に取り込む作業を、妻と二人で続ける。

カット&カラー

 コロナ禍になってから、妻が美容院に行く機会はすごく減った。

 そのうちに、私がカットするようになったのは、私自身が、自分の髪はもう何十年もセルフカットしてきた蓄積もあるからだった。それに、妻はぜんそくもあるし、できたら、家でカットをして染めることもできれば、安心なせいもあるからだろう。

 だけど、当たり前だけど、自分の髪の毛を切るのと、人の髪をカットをするのは違う。それでも、母が病院にいるときは、その髪のカットをしていたし、義母も、晩年は私が髪を切るようになったから、少しはトレーニングになっていたのだと思う。

 妻の髪も、最初は、前髪程度だったけれど、だんだん全体もカットするようになり、染めるようになり、すでに何度かおこなっていると、たぶん、少しは慣れてきた感触はある。

 だから、今日も、妻のカット&カラーを予定していて、昨日、入浴をした時に、リンスをやめてもらって、今日も夕食の時刻を早くしてもらうことになっている。

不安

 淡々とした毎日だけど、とても収入も少なく、アルコールもやめ、タバコも吸わず、減量をしてからリバウンドもしていなくても、それでも、ケガをしたり病気になったりしたら、簡単にすぐに追い込まれることを想像すると、怖くて、悲しくなる。

 
 今も、健康である程度若ければ、コロナ禍は、すでに落ち着いているといえるのかもしれないけれど、そうではない人間にとっては、コロナ禍は、終わらないことを前提とするしかないのだろうか、と思っている。




(他にも、いろいろと介護のことを書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。




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越智誠  臨床心理士/公認心理師  『家族介護者支援note』
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