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乳児の「オモチャが貸せない」に、親はどうしたらいいのだろう
赤ちゃんのクビがすわり、なんとなーくオモチャに興味を示しだす頃、支援センターや児童館といった、複数の子供が集まる場所に足を伸ばす親御さんが増えてくる。
目的の比重は人によってちがうが、
・育児の相談先やママ友がほしい。
・外出して気分転換がしたい。
・子供に他児やオモチャの刺激を与えたい。
・月齢の近い子供の様子がみてみたい。
こうした動機を持つ人が多いのではないだろうか。
出産の季節によっては引きこもりガチになる低月例期を終え、母子ともに地域のコミュニティーとつながりを持っていく、
ちょっと緊張ちょっと面倒、でもまぁ楽しみではあるかな、とソワソワするような気持ちでデビューする人が多いように思っている。
(上の子がいると問答無用でデビューは早い。いつもお疲れ様です…!)
ベストアンサーのない「育児あるある」
こうした場所で頻発する育児トラブルに、「子供同士でオモチャを取り合う」がある。
この問題の興味深いところは、
非常に認知度が高く、はじめてこの場面に出くわす親も、義務教育で習ったのかと思うほどに、テンプレのやりとりを子供に求めることだ。
子供A:(無言で子供Bのオモチャを奪う)
子供B:抵抗する、または泣く
子供A親:Aちゃんダメよ!か・し・て、よ!
(Aからオモチャを取り上げてBに謝って返す)
子供B親:いえいえ、すみません!
Bちゃん、ど・う・ぞ、よ!貸してあげて!
子供B:泣く
親は二人とも謝り、子供は二人とも泣いている。
誰にとって意義のあるやりとりだったのだろうか。
しかし、このテンプレが「子供同士でオモチャを取り合ったときの正解」として広く認知されている。
このやりとりが産み出すものは何だろうか。
言葉で説明できるような、3歳以上の子供の乱暴な行いをいさめるのならいざ知らず、
多くの親は明らかに話せないであろう月齢の赤ちゃんにも、上記のやりとりを指示するが、不可能であるとわかっていながら、なぜ口に出してしまうのだろう。
私はA親の立場もB親の立場も経験がある。
するとあら不思議、こんなに明白に「意味ないよね」と考えている私も、息をするようなナチュラルさで見事にテンプレをなぞってしまったのだ。
滑稽にみえても、目的はきちんとある。
このトラブルを通して、親は「オモチャの使用権」という本題をいったん置いておき、「私は常識的な親ですよ」と周囲にアピールする機会にしている。
この現象は一見かなり滑稽にみえる。
親のエゴに子供を巻き込んでいるようにもみえるし、実際にこのテンプレを演じた親は、「子供の気持ちをコントロールしてしまった…」であるとか、「まだ貸し借りなんてできなくていいのに、親の都合を押し付けてしまった…」といった後悔を感じる方もいるようだ。
私も実際にそのような後ろめたさとモヤモヤを感じたことがある。
意味がないと思うやり取りをどうして続けるのかな、私、流されているな…とほんのり苦い気持ちになった。
ただ、様々な親御さんの「かしてどーぞテンプレ」をみていくにつれ、考えが変わった。
教育観が…子供の意思が…親の都合が…とはじめは構えてしまったが、もっとシンプルで楽しい構造かもしれない、と思えたのだ。
乳児と親は切り離せない。だからどっちの気持ちも大事。
支援センターや児童館は確かに子どもが遊ぶための場所だが、一方で、親の社交場でもある。
子どもが他児とのかかわりを少しづつ獲得していくように、親もまた、他の親とのかかわりを一歩ずつ獲得していく。
さらに親は大人であるから、人間関係において「はじめが肝心」なことを経験からよ~く知っていて、「はじめまして」がすんでいないお宅とのトラブルは、絶対に避けたい。
たとえ子供に非がなくとも、先に謝っておいて事なきを得たい、という心理が働き、テンプレ会話を展開するし、相手にテンプレを返されることによって、「この人は話が通じる人だわ」と安心もする。
そう、すべては、「親子ともにこの場所を楽しむため」である。
子供とまた来たい、また来なくても今この場を楽しみたい、子供をイジワルな問題児だと思われたくない、自分もダメな親と思われたくない、という様々な感情は、「赤ちゃんとおでかけ」のレベルアップ過程で必要な修行なのだ。
現代の子育て世帯をとりまく社会の目は、子供よりも親に厳しい。
電車で子供が泣いているとき、イライラするかの判断基準は「親が必死にあやしているか」だったりする。
泣き声がうるさい、という物理的な状況よりも、親の不徳がみえる、という心理的状況にストレスを感じる人が多くなっているのだ。
そんな視線にさらされ、時に咳払いなんかもされながら、やっとこたどり着いた児童館。
そこで交わす「かしてどーぞテンプレ」は、たしかに少しイビツであるが、減点されてばかりの親の緊張感を、ふわっと少し軽くする。
かして、よ、どーぞ、でしょ、とゆるっと言い合ったあと、
ふっと親同士の視線が交わる。
(そんなこと言ってもこの子たちにはまだわからないわよね?だからお互い様よね?)
といったような控えめな笑みを確認しあうとき、くすぐったい、柔らかな空気が流れる瞬間が確かにあるのだ。
子連れ電車とはまるでちがう、許しあう気配にふふっと笑ってしまいたくなるときすらある。
もちろん、中にはオモチャに執着し、うっかり手が出てしまうことや、取られたオモチャが忘れられず、長い時間泣いてしまうなど、本当に困ってしまう時もあると思う。
繰り返すテンプレが面倒でおっくうになるかもしれない。
それでも、乳児のすることなのだ。
された時もした時も、危険なレベルでない限りは、そこまで深刻に扱わず、親同士のテンプレで、いーよいーよと許しあってもいいかもしれない。
親同士が笑いあい、安心してすごすために、ちょっと変だとわかっていても、乳児のかわりに「かしてどーぞ」と声を掛け合う。
そう考えると、なんて愛しいテンプレだろう、と思えてくる。
わたしたちは練習している。
いつか子供が成長したとき、他児にオモチャを貸せるように。
そして、親もまた、
「うまくいかない日」の親子に出会ったとき、にらみつけるよりもふふっと笑うため、未来の「穏やかなお出かけ」を目指して、
ちょっとヘンテコなテンプレを何度も何度も繰り返すのだ。
記:瀧波和賀
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