コロナ以後、誰にとっての「何者」になるか?
コロナの状況が刻々と変化していくなかで、いまは誰もが自分のこれからについて、深く考える機会に触れられているのではないでしょうか。
僕も、僕なりの考えを新著「あえて数字からおりる働き方」に込めさせていただいているのですが、早速同書を読んでくださった方からご感想をいただくなかで、ちょっと気になった質問があったのでお答えしたいと思います。
ご質問があったのは、本書1Pめの文章についてです。
Q,「誰かにとっての何者かになる」といっても、「誰か」が思い浮かばないときはどうすればいいのか?
それなら、僕はぜひ身の回りの子どもを思い浮かべて欲しいと思います。もちろん、お子さんがいない方でも、親戚の子ども、友達の子ども、近所の子ども…身の回りに一人くらい、思い浮かぶお子さんがいらっしゃるのではないかと思います。
子どもに「ありがとう」と言われるギブを重ね、何者かになっていく道は、必ず未来につながります。先日、「参加型社会宣言 ──22世紀のためのコンセプト・ノート」を出版された橘川幸夫さんと対談させていただいたとき、コロナ以後の社会の変化についてお話しするなかで、橘川さんは「子供は未来だ」とおっしゃっていました。
「かつて江戸時代のころ、海外から日本にやってきた人たちは、日本人が子どもをとても大切にし、可愛がる姿に驚いていた。こんなに子どもを可愛がる民族はいないと言われたくらい、日本人にとっての子どもは神様だった。
(コロナの状況を受けて、この先は)これまでのように、生活や社会をよりよくするために子どもを教育したり、面倒を見るのではなくて。大人は、世界中の子どものしもべになることが大事なんじゃないか」(橘川さん)
僕も、この橘川さんの言葉にとても共感します。僕の家族がバリ島に引っ越した理由も、一つは子どものことがあったからでした。僕自身がいつでもどこでも誰とでも仕事したりと、ある程度自由に選択できるようになったとき、今度は娘の未来が広がるようにサポートしたいと考えたのです。
子どもにとっての「何者か」になる
13歳くらいになれば、娘もある程度自分の目指す未来に向けて、今やりたいことを選択していけるようになると思います。ただ、そのタイミングまでにどれだけの可能性や選択肢を、子ども自身の素質や希望に合わせて広げてあげられるかが、余裕がある親としての僕の義務であると思いました。
その上で、僕はあらゆる多様性に触れて欲しいと思いました。そこで、あえて日本の学校ではなく、世界中から人が集まるバリ島のグリーンスクールで、他者との違いを楽しんでほしいと思いました。
同時に、自然が豊かでありながら、今もリゾート開発が進む環境で暮らすことで、人が生きていくうえで、ある程度自然を破壊しなければならない矛盾を感じながら、複雑で豊かな気持ちを育んでいってほしいと思いました。
子どもと向き合うことには、正解がありません。だから僕も、娘にとっての正解をギブしようとは思わないしできないです。僕は「可能性」をギブできる大人であったらいいと思っていますし、娘にとって“何者かである自分”を、これからも育んでいけたらと思います。
子どもがくれる「ありがとう」には、重みがあります。ぜひ「誰にギブしていいかわからない」という人は、まず子どもと向き合うことからはじめてみてはいかがでしょうか。例えば子どもに関するボランティアは数多くありますし、休日に親戚の子を預かって一緒に遊ぶことで、親以外の大人だからこそ広げられる遊びや世界に触れさせてあげるのもいいと思います。
子供にとっての”何者か”であれる自分は、とても前向きな未来につながるのではないでしょうか。
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「子どもは未来だ」など示唆深い橘川さんとの対話はこちらから
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