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理知を継ぐ者(18) 公正について

 こんばんは、カズノです。出版レーベルです。
 うちから出ている本に『優等生のやめかた』というのがあります。最近、合本版を出したんですが(これまでは全5巻をバラで売ってました)、その本で話していることに、受講生Dの話題は妙にリンクするところがありました。今日までの話を、もう少しツッこんで考えたい人がいたら『優等生』も読んでみてください。その本で紹介している「森口悠子」という人物にDはよく似ています。
 ⇒『優等生のやめかた』紹介
 今日でいったん講師Cと受講生Dの話はおしまいです。

【公正について】

 講師Cによる「生娘をシャブ漬けにする…」という発言を問題視した受講生Dは、大学Aと、講師Cの所属する企業Bに抗議を行いました。この抗議は署名運動にまで発展し、そうして、受講生Dは大学Aと企業Bの「適切な対応」を勝ち取ります。署名記事によればそうなっています。この記事の最後のほうの「キャンペーンについてのお知らせ・最新状況」というのがそうですね。

 ⇒受講生Dの署名用記事(これの後半です)

 さてそれはそれとして、なんで受講生Dさんたちはずっと匿名なのでしょう。これヘンじゃないでしょうか?

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 もちろん今現在、実名を明かしてしまうことが、かなり危険な行為なのは分かります。今の日本では、2.9万人の賛同者を得られるような行動や発言をすることは、同時に、同数かそれ以上の敵を生むことになりかねません。
 記事によれば、Dさん(たち?)は署名活動以前に、SNSで今回の事実を告げているとの話ですが、そのSNSに逆抗議が殺到しても不思議ではありません。そのせいで、日常生活がまもとに送れなくなるかも知れないし、ひどい場合、精神的な変調をきたす可能性もあります。それで自殺を選ぶ人もいるのが現在です。
 だから発信者の特定をふせぐ必要は感じて当然です。

 いえ、そういった理由からではなく、もっと個人的な事情から匿名を通した可能性もあります。まあ単純に、恥ずかしいからとか。
 宗教上の理由とかドクターストップとか親族の遺言でとか、想像しだしたら止まらないのもこの「匿名」ですけれど、だとしても、やっぱりこのような抗議活動は実名で行うべきではないか──という話ではありません。

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 こちらの名前をふせるなら、相手の名前もふせるのが筋だとおれは思います。それが平等、対等、公平、公正──単語はなんでもいいですけど、そういうものの「感覚」「カタチ」だと思います。そういう話です。
(むろん今回の署名用記事では、相手の名を伏せても話は通じます)。

 Dさんが信じている、民主的な人権思想の下では、「こっちの名前は出さなくても、相手の名前は出していい」という「形式」「考え方」があるのかは知りません。おれは民主主義者ではないからです。べつに封建主義者や国家全体主義者やその他でもありません、単に政治的な主義を持っていないだけです。
 ですので人権思想も特に信じていないのですが、なのでこういう場合に、「こちらが名前を出さないのだから、相手の名前も出さないのが筋」というスタンスが、民主的な人権主義の考え方・形式に合致するかは知りません。「相手が悪いのは明白なのだから実名で告発する。でもこちらは諸事情から実名は明かさない」、それで通るのが民主的な人権思想の考え方なのかも知れません。
 あるいは民主や人権に関係なく、それがDさんたちに固有の考え方や形なのかも知れません。
 それは知りませんが、でもおれの感覚では、

 相手の名前を出すなら、自分の名前も出す。
 自分の名前を出さないなら、相手の名前も出さない。

 それがごく基本的な、人間関係の礼儀です。

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 以前に和田・奥田事件を引用しましたが、和田は奥田を批判しているときには、それでもぜったい「奥田民生」の名前は出しませんでした。出したのは和解したあとです。
 もちろん、「同じ業界で働いてる」「格下のおれが」「あんまはっきり言っちゃうのはやばい」もあったと思います。そういうしがらみや見栄や処世術もあったと思いますが、でも彼の批判記事は、どう読んでも「奥田民生」を名指ししています。
 ほとんど名指ししながら、それでも実名を出さなかった和田を、おれはまともな感覚の持ち主だと思います。いえ、自分は実名を出しながら、それでも相手の名は出さないこのスタンスはえらいとさえ思います。
 べつにDさんたちの感覚はおかしいという話ではありません。Dさんたちとは違う感覚、礼儀作法を持つ人間も世の中にはいるということです。

 まあ、言葉にすればありきたりですけどね。人はそれぞれだと。
 ただこの「人はそれぞれ」とは、結論に持ってくる言葉ではなく、前提になる意識/感覚ではないでしょうか?

 受講生Dは、この前提が共有できていない気がおれにはします。
 例えば話してきた「足りなさ」に、この共有のなさを感じます。「人はそれぞれだ。つまり自分の価値観、言葉が、そのままでは通じない相手もいる」という意識がDには希薄な気がします。
「私たちはもう我慢しない」──この意味不明な言葉は、「もうこれだけで通じる『私たち』がいる」という思い込み、あるいは開き直りから話されています。そして「この言い方で通じないほうがおかしい」「私たちこそが正しい」というスタンスしかこの言葉/意識にはありません。最初から「それぞれである他人たち」を相手にしていない。「他人」が見えていない。

 Dは「他人」を説得しようとしてくれないんですよね。これから言葉を尽くして説得していく相手が、そもそもは世間だし社会なのだという事実を分かっていない気がします。



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