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理知を継ぐ者(6) 足りなさについて②

 こんばんは、カズノです。

【「もう」とはなにか】

 受講生Dによる署名用の記事にはタイトルが2つあります。まずこれが不自然ですが、気になるのは2つめに付け足されている「私たちはもう我慢しない」というフレーズです。特に気になるのはその中の「もう」です。この「もう」とはなんでしょう?

 常識的な日本語の使い方から考えて、「これまでずっと我慢してきたけど、『もう』私たちは我慢しない」という意味ですよね。あるいは「我慢させられてきたけど」「もう我慢しない」。
 じゃあその「これまでずっと我慢してきた/させられてきた」のは、何に/誰に対してなんでしょうか?
 分かりません。記事のどこにも書いてないからです。
 ただ例えば、こういう考え方が出来ます。

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 今回の受講生Dの署名運動は、まず大学Aと企業Bに抗議を入れ、その後の対応を待っている状況で行われたようです。だからこの「もう」は「もう待ちきれない」という意味なのかも知れません。
「ずっと待ってるのに、ちっとも対応してくれない。本質的な問題点を共有してると思えない。『もう』私たちは我慢できない」
 そういう読み方がまずひとつ。

 それから、「受講生Dには、過去から積み重ねられてきた『我慢』が個人的にあった」という読み方もできます。
 ではこちらの読み方をした場合、具体的に、それはどういうものだと想像できるでしょうか。つまり、いつ、誰に、どのような我慢を強いられたのかと、考えることができるでしょうか。
 それは分かりませんが(具体的に書かれていないからです)、ただ少なくとも、たぶんそれは大学Aにも企業Bにも関係のない「我慢」だったはずだと考えられます。

【Dは何に我慢させられてきたのか】

『本件の詳細』を読む限り、講師Cと受講生Dはこの講座で初めて会った間柄のはずです。つまり受講生Dが講師Cに「これまでずっと我慢してきた/させられてきた」ことはないはずです。それはCが勤める企業Bとの関係でも同じです。
 CやBの下でこれまで受講生Dが働いていて、でもずっと我慢してきた/させられてきたという話はありえないですよね。だってそんな相手の講座(しかも経営戦略)を聴講しようと思うわけないからです。
 同じ考え方は大学Aにも出来ます。仮にDが大学Aの卒業生だとしても、これまで我慢を強いられてきた学校の社会人講座を選ぶことは最初からありえないでしょう。そう考えるのが妥当だと思います。

 じゃあこの「もう」とはどういう意味でしょう?
 大学Aでも企業Bでも講師Cでもない何か/誰かから強いられてきた我慢が、受講生Dにはあった、ということですよね。他に考えようがないからです。
 だとすると、この「私たちはもう我慢しない」というフレーズは、今回の抗議の相手とは関係ないということです。

 このフレーズが、「抗議してからずっと待ってるのに、ちっとも対応してくれない。本質的な問題点を共有してると思えない。『もう』私たちは我慢できない」という意味合いなら、それは分かります。
 けれど、今回の抗議相手とは無関係な我慢について「もう我慢しない」とするなら、それってなぜなのでしょう?
 分かりません。書いてないからです。



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