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理知を継ぐ者(16) 差別について②

 こんばんは、カズノです。

【差別語と差別意識】

 言葉とは、確かに、人の意識の反映です。というより、人の意識は言葉でできています。心もそうです。人の心とは要するに言葉のことです(動物は違います)。
 なので、差別的な言葉を使う人間は差別意識を持っている、という考え方は正しいでしょう。差別的な心理に基づいて、差別的な言葉を使っている。
 でもだから、「めくら」とは本当に差別語なのか、です。

 むろん差別語ではありません。差別的な意識に基づいて「めくら!」「どめくら!」になったときに、初めてそれは差別語になるからです。
 いえ、少なくとも江戸時代ではそうだったんです。

 ではその江戸期から大きく様変わりした、今現在、「めくら」「おめくらさん」「おめく」「めくら!」「どめくら!」を一律に「目の不自由な人」にすれば、差別はなくなるのでしょうか?
 なくならないですよね。
 なぜなら人は「言い換える」ということが出来るからです。つまり嘘をつけるからです。「『めくら』はやばいから『目の不自由な人』て言い方しよう、そうウソをついとこう」という意識の表れが「目の不自由な人」になっていることもあると。

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「目の不自由な人」を使う人にも、盲人への差別意識を持っている人はいます。うじゃうじゃいます。でも彼らは「目の不自由な人」という言い方をするので、差別的ではないとされます。彼に差別意識はないとされます。
 バカバカしい話ですよね。

「差別語を使う人には差別意識がある」
「差別語を使わない人には差別意識はない」
 それはあまりに形式的で、人間の個性というものを無視しています。
「この人は『めくら』を使うから盲人を差別してる」
「この人は『目の不自由な人』を使うから盲人を差別していない」
 それは短絡です。「この個人は盲人を差別しているのかどうか」をそもそも理解しようとしていない。つまり相手を「ある個性を持った」「個人」と認識していない。

 私たち現代人は、「封建主義の野蛮で差別的な江戸人」より「進歩」した人間なのでしょうか。「人権思想のなかった江戸時代は、個人を尊重なんてしなかった。人権思想のある現代は、でも個人を尊重する社会なんだ」とか、それほんとでしょうか。

 問題にされるべきは人間(個人)の「意識」であって「言葉」ではありません。
「『めくら』はダメだけど、『目の不自由な人』ならOK」とは、人間の差別意識を、言葉に責任転嫁しているだけですよね。
 言葉に罪はありません。罪のあるなしを問うべきなのは、人間の意識のほうです。
 そして人間の意識を問うならば、「その個人がどう思っているか」を思いやる、礼儀作法が個々人あるいは社会に必要でしょう。



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