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理知を継ぐ者(26) 私たちとは誰か②

 こんばんは、カズノです。

【対話が見あたらない】

「私たちはもう我慢しない」の「私たち」とは誰でしょう?
 そもそも発起人たる受講生D=私たち①が分かりません。この受講生D1、D2…たちの繋がりがいきなり分からない。
 その私たち①に賛同した私たち②は誰なのでしょう? どのように「私たちはもう我慢しない」を解釈し、この運動に参加しようと思ったのでしょうか。いえ、どのように解釈し、考えれば、この運動に参加できるのでしょう。

 そうして出来あがった「私たち③」とはどういうものでしょうか。
 少なくとも言えるのは、この私たち③=「私たちの総体」には「対話的な関係」が見あたらないということです。

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 私たち①たる受講生Dたちが、どのような接点/対話から「私たち」を名乗るようになったのかは分かりません。書いてないからです。つまり「このような対話から、私たちは『私たち』という単位になったのです」と書いて伝える必要を感じていないということですね。

 その書いていない「私たち」に「私もその『私たち』だ」と思ったのが私たち②ですが、なぜそう思えたのでしょう? 分かりません。署名時に個々にコメントは残せるようですが、そこに私たち①との対話的な関係は見られないからです。
 加えるなら、話したように、これがオンラインじゃない署名なら、「どういう対話だったかは分からないまでも、なにしろその自筆署名は対面で行われているはずだから、それなりの対話の結果として署名するに至ったのだろう」とはまだしも思えます。でもオンライン署名には、こういう想像的な「対話」もありません。
「私たち①+私たち②」である「私たち③」とは、部外者から見ればどのような対話/交流から、どのような合意を経た集団なのかまったく分からないということです。

【『私たち』とは誰か】

 どのような経緯/交流/理解了解を経て連帯しているのかが分からない。彼らには、自分たちの交流の経緯を「外」に対して伝達しようとする、態度もありません。だからなおさら、どういう連帯なのかこちらは分かりません。いえ案外、内部でも似たようなものかも知れません。

 受講生Dを発起人とした抗議活動は、
「志を同じくした市民の連帯」
 かも知れないけれど、
「一方的な思い込みを抱えた烏合の衆による、一時的な熱狂」
 かも知れないということですね。

 後者だとしたら、もう内輪以前の話です。せめてある内輪とは、個々人の中にあるだけかも知れません。内輪の人間関係が自分しかいないということです。仮にそうならすごいとこまで行ってますよね、日本社会は。

 ですので、オンライン署名の問題点をもうひとつ挙げるとしたらこの点です。対人署名では、こういう内部的な疎隔や分裂──現在的にいえば「分断」は起こりにくいものです。説得つまり対話を経なければ成り立たないのが対人による署名だからです。
 現在といえば「分断」ですが、同じ意見に同意しているように見えて、実際には個々に違うことを考えている、そういう「内部的な分断」もオンライン署名にはありえるでしょうね。

 民主主義といえば「話し合い」ですが、対話的な関係(その表明)にまったく重きを置いていない民主主義者ってなんでしょう?
 民主制に重きを置く受講生Dには、もう少し、「私たち」という単位がどういうものかを考えた上で、この言葉を使ってほしいと思います。



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