引き延ばされた青春
人生の中で青春期はもっとも輝いている時でしょう。今だから自由でいられる。それが分かっているからこそ、若者たちはこの時期を大切にしようとします。しかし、青春期という概念はかつて存在しませんでした。
子ども時代は大切です。かわいい時であり、人としてグングン成長する時代です。一方、大人もまた、社会を支える大切な存在です。それぞれに意義のある重要な時期です。ただ、子どもから大人には瞬時にかわるものではありません。その間には移行期というものがあります。この移行期の考え方が昔と今とでは大きな違いがあるわけです。
移行期では、子どものかわいらしさはありませんし、大人としてはまだ役に立ちません。そんな時期は、早く過ぎ去ってしまうべきものだと考えられてきました。日本でも昔、元服がありましたが、その年齢は数えで12~16歳です。子どもでなくなれば大人だよという儀式。若者らしい枠にはまらない行動や考えは許されるものではありません。若者達は、自分たちの衝動を抑え、ひたすら大人への脱皮を目指していました。
時代が下ると、移行期そのものにスポットが当たられるようになります。最初にテーマにしたのは夏目漱石の「三四郎」だという説があるようです。考えるべきものではないとされた青春期の悩みや情熱。そこに光が当てられると大きな共感を呼び、それ以降、文学や映画では大きなテーマとして扱われるようになりました。
はじける熱情。湧き出るエネルギー。果てしない夢。狂おしい願い。そうした青春期の姿が次々に描かれ、人々はそれが人生の輝ける時期であることに気がついたのです。早く過ぎ去ることを願った暗黒の時代はかけがえのない青春時代とし認識されるようになりました。
しかも、教育年が長くなり、大学や大学院への進学率は伸びる一方です。大人になる年齢はどんどん遅くなっていったのです。青春期は、一時期どころか、人生全体の大きな割合を占めるようになりました。
この時期には親からの束縛から解放されます。そして、社会や家族に対する責任も負いません。夢をあきらめる必要もなく、社会という大きな舞台で遊ぶことができるのです。その味を一度知ってしまえば手放すことが難しくなります。
そこで、この状態を引き延ばそうとする人たちが多く現れました。いつまでも青春期でありたいと願う人たちです。一つの職業に執着せず、結婚し家族を持つことに積極的ではありません。
精神分析学者の小此木圭吾氏は、こうした傾向の人々をモラトリアム人間と名づけました。
人生の選択を避け、大人になることを拒否する代わりに、夢や可能性を保ち現状の自分に妥協しない人たちということです。「青春のひきのばし」とも言えます。
それは、現代日本と特徴づける2つの事象に表れていると思います。一つは晩婚化。もう一つが転職市場の活性化です。
以前のブログに書きましたが、転職には質の違いがあります。中でも同業種へと異業種へとでは転職の意味合いが全く異なってきます。
同業種なら、ステップアップ、またはキャリアアップのためという目的が見えます。異業種の場合はその目的や意味をしっかり見極める必要があります。20代前半で行う異業種への転職は自己探索の一環だと想像できます。それが40代、50代ならどうでしょうか。
もしかすると「青春のひきのばし」をしようとしているのかもしれません。その生き方を選ぶことが正しいかどうかは簡単に答えが出るものではありません。
一時の気まぐれや自暴自棄からの選択なら明らかに間違っています。しかし、本当の自分が生涯青年であるなら、むしろ大人になるのを拒否すべきかもしれません。その判断は難しいもの。せめて、キャリアコンサルタントに相談してみるくらいは考えて欲しいものだと思います。
自分の持つ可能性を保持したい。夢を捨てない。試すことに価値がある。そうした思いの中での転職。それは一つの生き方です。その生き方で成功した偉人は古今東西、枚挙にいとまがありません。
果たして、自分自身はどうなのか。本当の自分を一生かけてでも見つけていきたい。そうした勇気を持った人っていいですね。
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