個人と社会~どっちを活かす?
個人と社会。社会心理学においての最重要テーマ。私たちが生きる上で常に突き付けられる問題です。この二つをどう折り合いをつけるかでその人の生き様が決まるとも言えるでしょう。
しかし、双方を両立させることが常にできるわけではありません。相いれない場合が頻繁に起きます。そんな時はどちらかを優先し、どちらかを犠牲にしなければなりません。すべての人がこの葛藤に悩みます。
大きな水族館に行くと見られるイワシの大群。渦を巻いたり、2手に分かれてまた1つになったり、形を変えながらあたかも1匹の生命体であるかのように泳ぐ姿は観覧者を魅了します。
イワシにもそれぞれに感覚や意思があるはずです。しかし、群れを見ていると、個体とは別に集団の意思があるのではないかという気がしてきます。2つの意思が同居して行動を決めている。それがあの見事な魚影に結実しているのではないでしょうか。
ユングは集合的無意識があると唱えました。世界中に存在する神話や民話を研究して、人類には共通する心があるとしました。
フランスの社会学者デュルケーム(1858~1917)は集合意識の存在を提唱しました。そして社会の意識は個人の思考や感情を拘束し,行動をコントロールしうると唱えたのです。
話は変わりますが、有名なジョークがあります。「男が海に飛び込む」という状況での各国それぞれの国民性を表したものです。飛び込む理由として、アメリカ人はヒーローになりたいから。イギリス人はジェントルマンでありたいから。ドイツ人はそれがルールだから。フランス人は女性を救いたいから。では日本人は何でしょうか?
答えは「みんなが飛び込むから」。誰が作ったのかはわかりませんが、納得してしまいます。
各国の人が乗り合わせた船が沈没しかけた時、海に飛び込ませるために国別に説得方法を変えるという話でした。良くできていますね。
皆がするから自分もする。確かに日本人にはこうした傾向が強いと思います。個人と社会のバランスは社会の方に傾いた状態で取れている、ということでしょう。
山本七平は日本人の集合意識を「空気」という言葉で表しました。著作「空気の研究」では例として戦艦大和の出撃を挙げています。当時、あらゆるデータが失敗を示していたにも拘わらず大和は出撃しました。一体、誰の意思だったのでしょうか。山本氏は言います。誰の意思でもない、実現させたのは空気だったのだと。
空気は社会の意思だとも言い換えられます。社会の意思の前では個人の意思は無力です。
近年、世間を騒がせた事象を見ても空気がそれを動かしていることが分かります。
コロナ禍はそれが露になった2020年に最大の恐怖をもたらしました。マスクは品不足となり、患者が出た家には石がぶつけられ、県外ナンバーの車はガラスが割られていました。
その頃の状況はどうだったのでしょうか。全国の新規陽性者、第一波のピークは2020年4月11日。その数は720人です。この数字が人類滅亡級の恐怖をもたらしていたのです。
現在は第7波を数えるまでに至りました。そのピークは2022年8月3日の24万9830人。なんと347倍に膨れ上がっているのです。
それに呼応して国の施策も厳しくなっている、かと思いきや、実態は真逆。待機期間は短縮され、マスクの解除のタイミングを見計らっている状態です。
科学データはコロナ禍の高まりを示しています。しかも和らぐ気配もありません。にもかかわらず施策は緩くなる一方。誰の意思でしょうか。総理大臣でしょうか。いえいえ、あの人は何も決められないことで有名な方です。
結局これも空気の仕業でしょう。社会の意思がそうさせていると考えれば合点がいきます。
空気の力には誰も勝てない。では個人はそれにひれ伏すしかないのでしょうか。
個人を立てれば社会が立たず、社会を立てれば個人が立たない。しかしこの二つは対立するものではありません。
社会は結果です。個人のあり様によって出される結果なのです。個人を立てれば、そういう社会となり、社会を立てればそういう社会となる。
主体的なキャリア形成の重要性が叫ばれています。キャリアとは社会が作るものではありません。個人の意思によって作られるものであり、その結果として社会は形作られていくものです。