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小説 『その女、侍になりて』 一

 辺りには血の臭いが満ちていた。

 黒い頭巾から血走った目をのぞかせる男は、暗い夜空を仰ぐ女の胸を、腹を執拗に刀で突き刺す。
 傍らには背を大きく斬られた侍の男が地に伏していた。
 侍が背を斬られることがどれほど無様なことであるか。足蹴にまでされた跡の見える姿に、娘は怒りで視界が赤く染まった。
 握りしめた木刀を振りかぶり、腹の底からの怒声を発する。
 目の前の、この悪辣な存在に向けて走った。姉と義兄を殺めたこの男を、娘は許すことは出来ない。
 骨が軋み、かつてないほどの殺意を持って娘は咆哮を上げ、男に殴りかかる。


 何故こんなことになったのかなど、怒りに染まった娘には考えられなかった。



 花房道場、と立派な看板の掛けられた門の向こうから、木刀がぶつかりはじかれる音がする。
 そこがキギスの国の東玄関にあたる左京でも名の通った剣術道場であることは市中でも知られたところだ。
 日の高いうちならまだ良いものの風が吹けば思わず二の腕を擦る冬の半ば。「ヤーッ!」と若い女の気合いとともに床板が力強く踏みしめられる音が外まで響いた。
 声の主は花房センといい、まだ若い。
 きつめに髪を結わえて目つきも鋭くなった顔つきは若い鷹を思わせた。
 濃紺の胴着は汗で更に色が濃くなっている。ひっつめた黒髪を激しく動かし、相手の男――センより六つ七つほど年上に見える青年に木刀を素早く打ち込む。
 青年は菊之助という。
 センに何度も木刀を打ち込まれるが、総髪を髪一筋もほつれさせることなく受け流していた。その足運びもあまりにも自然過ぎて、彼が一流の剣士であることは一見してわからないだろう。
 つめれば二、三十人の見物人を入れられる道場だが、今はセンと菊之助のみである。センは道場内を駆け、あるいは距離を取り睨み合いで隙を探した。一方菊之助の足運びは最低限、しかしその動きは緩やかであるのに隙がない。
 菊之助の様子に、センはけぶる焦燥が腹にたまってゆく。年齢と性別を含め、総合的に考えても菊之助が圧倒的に強い。彼の一種の演舞のような動きに対して、センの動きはまだまだ無駄が多い。
 間合いをとったセンは丹田に力を込め、唇の隙間から呼気を吐き出す。シュウ、と細く吐き出された息は鋭く、絞るように木刀を握る手が軋んだ。瞬きも少なく鋭さを持った眼差しが菊之助を見据え、木刀の切っ先をかすかに揺らす。彼がその動きにかすかに視線を動かしたのを、センは見逃さなかった。
 肩からぶつからんばかりに踏み出し、左下方から掬うように木刀を振り上げる。猿叫による威圧、不意打ちと予想外の動きだ。「いける」とセンは確信する。からだの縦回転で、木刀にかかる力は通常の打ち込みの何倍にも膨れ上がっていた。骨よ砕けよと言わんばかりの斬撃が菊之助を襲う――はずだった。

「アッ!」

 センの手は空で、木刀が後方に落下する。ガラン、と広い道場に木刀の転がる音が響いた。菊之助の木刀がセンの木刀を掬い上げ、はじいたのだ。すさまじき速さと技巧で彼はセンの木刀が届くよりも先にそれをやってのけた。ビリビリとした衝撃に、センの手は痺れる。
 ひたりと向けられた菊之助の木刀の切っ先が、敗北を明らかにする。
 音が消え、沈黙が支配する。日中ではなく、また夕暮れには早い傾き始めた日の光の中、その空間には静謐ささえ漂っていた。
 はぁっ、とセンが呼吸を乱し肩を大きく上下させたのに対し、菊之助はゆるりと細く息を吐く。
 手合わせの終わりの合図だった。ふたりの間に漂っていたピンと張った糸の緊張がほぐれる。

「セン殿、強くなりましたな」

 菊之助はやわらかな笑みを浮かべ、木刀を構える姿勢をとく。その笑みにセンは唇をぐっと持ちあげ悔しそうに顔を伏せて木刀を拾う。拾い上げた木刀に、新しいキズが出来ていた。

「世辞はおやめください義兄上……今日も一本しか取れませんでした……」

 義兄上と呼ばれ、菊之助は笑みを穏やかにする。汗が噴き出し、額を乱暴に擦るセンに清潔な手ぬぐいを差し出した。少しためらいながら手ぬぐいを受け取ったセンは顔を覆うようにそれを擦りつける。その乱暴な手つきはセンの悔しさだ。

「終わりましたか、菊之助さん」

 道場の入り口から高い女の声がかけられる。センはそちらを向かず、菊之助はゆったりとそちらにからだを向けた。

「ああ、今日の手合わせは終わったよ、かえで」
「お疲れ様です」

 かえでは今年生まれたばかりの息子を胸に抱き、菊之助に微笑む。髪を銀杏のように結い上げ、椿油でなでつけた鬢はほつれなど一切ない。今年流行りの漆紅に芥子色の模様のはいった着物も一切の乱れを見つけることが出来なかった。
 かえでの腕の中でふにゃふにゃと声を上げる赤子の頬を、菊之助は指の背で撫でる。それをくすぐったそうに息子の活丸は笑った。
 菊之助は活丸の顔にからだを寄せ、センの方を向く。

「叔母上、活丸に顔をみせていただけませぬかー? 活丸は叔母上が大好きなのですぞー?」
「義兄上……」

 菊之助のあてた活丸の言葉にセンは呆れ半分、恥ずかしさ半分の表情。
 そろそろとかえでの腕に抱かれる活丸の頬をそっと指を差し出す。木刀を握り続けていた手は存外くたびれていたらしい。震えていた指先が不器用に突き刺さり、活丸はふぎゃぁ、と泣き出してしまった。

「あっ、活丸ごめん! 泣き止んで!」

 活丸の泣き声に慌てふためくセンの表情に、先ほどまでの気迫はない。
 活丸をなんとかあやそうとするもことごとく失敗するセンに、かえでは心底呆れた表情だった。

「セン、あなたはいつまで侍を目指すのですか? ふたつ上のおはるちゃんは縁談がまとまりそうだというのに、いつまでも……」

 かえでの「いつもの」言葉にセンは苦茶と苦虫と薬草をまとめにねじ込まれたような……不快と苦痛を同時に顔に出していた。
 かえではいつもこうだ。
 ことあるごとに「おなごが剣術など」「せめて琴や華道を」「侍などおやめなさい」と顔を合わせる度に言われるのでかえでと顔を合わせるのが嫌でたまらなかった。
 侍になる女は多くない。しかし武家や公家の奥方や姫君のそばに控える女侍が求められるのも事実である。そういった女侍たちは武家の娘でも腕利きが多かった。

「義兄上がいて、活丸もいるのであれば花房の家は安泰。私ひとりが剣の道を走ろうとなにも問題ありませんでしょう」

 ふい、と年相応に拗ねた顔を見せるセンにかえではまた深く溜息をついた。菊之助は活丸をかえでから受け取り、あやしながらふたりを見た。

「セン殿はそこいらの道場の師範よりよほど腕が立つ。先生のご指導が厳しくて師範代ではあるが、あと二年もすれば弟子取りが出来るほどになると思うよ」

 菊之助の言葉にセンは目をぱっと輝かせ、力いっぱいこぶしを振り上げてみせる。菊之助の剣士としての言葉が嬉しくてたまらず、声を張り上げた。

「本当ですか義兄上! センは一層精進いたします!」

 センの声に驚いた活丸が、再び鳴き声を上げる。その様子に慌てふためきながらあやすふたりを、かえではため息交じりに見ていた。

「ふたりとも、そんなことをしていると夕餉の時間を過ぎてしまいますよ?」

 活丸をそっと受け取り、あやすかえでは外に視線をやる。もうこの時刻になれば、陽の落ちるのはあっという間だ。

「すまぬかえで。義妹御を送ってくるよ。夜廻り組が回るよりも先に先生のところまで送らねば」
「明日も手合わせお願いいたします! 義兄上!」
「まったくもう……」






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