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共通点探しの罠
ワークショップや研修では、冒頭の時間、「共通点探し」から活動が始まることがよくあります。
先日観察したあるオンラインのワークショップは、ブレイクアウトルームに散らばった3~4人の参加者に対して、「あなたたちの共通点を探してください」という指示がまず与えられ、そこでみつかった共通点をベースにして、そのあとのアクティビティのテーマやコンセプトを決めさせて、さらにそれを表現する活動へ向かわせるという流れでした。
共通点探しというアクティビティそのものは、きわめてありふれたもので、私自身、他の現場でも何回も見たことがありました。しかし、先日その場面をみたときに、強い違和感がこみあげてくる感覚が、改めてありました。この文章では、改めて、そのときに感じた違和感の正体を掘り下げて考えていきたいと思います。
まず、他人と共通点を見つけることのありがたさを思い起こしてみましょう。例えば、外国をひとり旅行していて心細い気持ちになっているときに同じ母国語を話す人に出会った経験。また、初対面の人のSNSのプロフィールをみたら共通の友人がたくさんいることが分かったときの、心理的な距離がぐっと近くなる感覚。このような経験はきっと誰しもあるのではないでしょうか。
ワークショップにおける共通点探しは、上記のような、共通点が見つかることによって互いの距離感がぐっと近くなる感覚を思い描いてのものなのだと推察できます。
そのうえで改めて思い出されるのは、私がLEGO® Serious Play®(LSP)のファシリテータートレーニングを受講したときに、「共通」と「共有」、すなわち「コモン」と「シェア」の違いについて教わったことです。
多様なメンバーで構成されるチームにおいて、共通点を探すことは難しく、仮に見つかったとしても、それはニッチで些末なものになりがちである。こうして決まった落としどころの共通点は、誰にとっても大切ではないものになってしまう。LSPでは、共通点を探すことを一旦脇に置いて、他者と異なっても構わないので、まずは、自分にとって大切なこと、こだわりや価値観を出し切る。そのうえで、それらのこだわりをレゴブロックのパーツとして取り出してそれらをくみあわせる。そうして、全員が満足することはなくても、皆が納得できる共有(シェア)の場を構築していく。
この「共通」と「共有」の枠組みを補助線に置くと、ワークショップにおける「共通点探し」は、実は「共有点探し」の下位互換なのかもしれないとおもえます。先ほど例としてあげた、「共通の母国語」や「共通の友人」は、文化ないしソーシャルグラフの共有への期待と、読みかえることができます。共通点を見つけられた領域が、自分のアイデンティティのコアに近いほど、その質感は強くなります。しかし、上のLSPに関する記述ですでに明確に述べられているとおり、多様で雑多な人たちが集う場では、「共通点探し」がその狙いを果たせる可能性は高くなさそうです。
さらに指摘しておきたいのは、ワークショップの場をつくることへのそもそもの願いについてです。僕らがワークショップをつくるときの本源的な願いは、異なる人々のあり方や多様性を受け入れ、普段の職場では言いにくいような個々の孤独や居場所のなさも含めて包み込み、参加者がのびのびと活動に参画できる時間を提供することにあるとおもいます。
共通点探しは、しばしば外見や職務経験などの、目につきやすく言葉にしやすい外形的な属性に注目させてしまいがちです。内面の多様性や個性、表に現れない部分は見落とされてしまうおそれが大きい。例えば、セクシャルマイノリティや異文化のバックグラウンドなどの、外見にあらわれにくいアイデンティティをもつ人たちの参加を念頭におくと、外見上の共通点や表面的な特徴に意識が集中する場になってしまうと、それだけ、自分の内面やアイデンティティを声に出しづらくさせてしまうかもしれません。
ここまでの議論を、ちょっと強引にまとめます。まず、ワークショップをつくる人は、その場を開くにあたっての自らの願いに対して、ちゃんと自覚的かつ意図的であってほしい。そして、もし、他者と様々な違いを超えて繋がりあいたいという願いをもって場をひらいているのであれば、その願いとは真逆のメタメッセージをもちうるワークの設計には、慎重であってほしいとおもいます。