不確実さと向き合う
主に社会人向けの研修という文脈で、学びの場のデザインやファシリテーションを手がけるのが、私の仕事だ。この仕事の目的や成果物を顧客と擦り合わせるときに、コミュニケーションの難しさを感じることがある。
研修という商材は、人の学びという無形の成果を追求するものなので、成果は曖昧になりやすい。それでも通常の研修であれば、「ロジカルシンキング」、「クリティカルシンキング」「文章作成力」などのフォーカスがまがりなりにもあって、話が早い。
こういった、教え手から学び手へ伝えるべき知識やスキルがあらかじめ特定されており、それを情報のロスないし変質なくそのままに伝えきるということが、オーソドックスな教育が目指す姿だ。
他方、私がつくっている学びの場では、そのような知識やスキルを供給する先生のような役割の人はおらず、学び手が自分で学び、もしくは相互に学び合う。このようにして学ぶ力を身につけることが、学習の目的ないし対象となることもある。
学習する内容が、ある程度は学び手次第となるこのようなアプローチは、オーソドックスな研修に慣れ親しんでいる顧客の担当者にしてみれば、わかりにくいし、効果が見通しにくい。それが、冒頭に述べた、コミュニケーションの難しさの内実だ。
このような不確かさや曖昧さは、私自身にとっても心地よいものではない。もちろん意義があると信じて取り組んでいるのだが、モヤモヤとした気持ちは晴れない。
そんなとき、孫大輔『対話する医療』に出会った。この本に出会うまでは、医療という分野は自分には無縁なものだと思いこんでいたが、実のところ、人が医師らの専門家の力をかりて病気を治し、健康を維持するプロセスは、教育や研修の力をかりて自己変容を起こすプロセスととても似ており、インスピレーションの宝庫だった。
なかでも驚いたのが、「オープンダイアローグ」の紹介の箇所だった。これは、フィンランドに始まり、30年以上の実践の蓄積がある精神医療のアプローチで、そのものずばり、対話(ダイアローグ)によって症状を緩和しようとするものだ。対話ミーティングを繰り返すことによって精神疾患の症状が顕著に良くなるということが、まず驚きだ。
このオープンダイアローグには、いくつかの原則がある。そのなかで特に興味深いのは「不確実性への耐性」だ。安易に結論を出さない、その曖昧な状況を受け入れる寛容さが求められるということだ。
人が学ぶという営みも、不確かさに満ちている。ここにお金が絡んだりすると、目に見えた成果をすぐに求めてしまいがちになるのだが、安易に、拙速に結果を求めることは、かえって人の成長を阻害するかもしれないと、反省した。
もしくは、このような感想を持つことは、自分を単に慰めて甘やかしたいだけかもしれないので、この問題についても、安易な結論を目指さず、引き続き、曖昧さに耐えて向き合い続けるのが、良いのかもしれない。
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