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観察する

昨日は、某自治体の若手職員向けの研修に、サブ講師として参加した。本研修では、行政職員としての企画立案の実践演習を、3日間かけて行う。昨日はその1日目で、軽いイントロダクションのあと、実際に街にでて、人々の行動を観察してインサイトを探るフィールドワークをしてもらった。私は、「子ども」というテーマのチームが歩き回るのについていき、観察の様子を観察した。

「観察」という営みは、奥が深い。普段のワークショップのファシリテーションでは、参加者の姿勢、目線、呼吸や表情などから、いまこの場でなにが起こっていて、これから何が起こりそうか、目を光らせている。しかし、メインの進行役だと、観察ばかりというわけにもいかないので、今回のようなひたすら観察できる機会は、貴重だった。

約2時間、いくつかの公園を渡り歩き、目当ての公園には人がいないというハプニングに見舞われながら、それでもどうにか観察を終える。その後、研修室に戻って、観察内容の共有、そこからどんな解釈やインサイトが取り出されそうかを議論し合うのを、傍聴した。

そこですこしびっくりしたのは、自分が対象の親子たちたちをみて気づいていたことと、受講生たちの観察内容の隔たりが、思いのほか大きかったことだ。私が気づいてメモしていたことのいくつかは、彼らの記録と記憶からはごそっと抜け落ちていた。

あとで、これは観察力や注意力の問題なのではなく、当事者性と身体性の問題なのだと思い至った。私には5歳と1歳の子がいて、週末に公園に連れていくという日常をもっている。その体感から、他の親子の様子を見ていても、瞬間ごとの目線や姿勢や動作から、ある程度は、その親子の気持ちを推測したり、共感したりできる。自分の身体のなかに、その場に適したフィルターがあるので、情報が抽出されやすいということだ。他方、今回の受講者の若手社会人の方々の多くは、子育てをする世代ではまだなかった。

ただ眺めるということと、観察するということは、まったく異質な営みといえそうだ。観察から発見を抽出するには、観察対象の人の体感や感情を、自分のなかに憑依させる力が必要だ。目に映る平面的な映像情報に、身体による肉付けの工程が加わる。

相手と同一の感覚を持つことはもちろんできないので、なにか似た経験から類推して、その気持ちを推し量る必要がある。その類推や想像の力と、継続して無心に観察をつづける粘り強さとが両立する必要がありそうだ。

豊かな想像力をもつには、経験のストックがたくさん欲しい。その点で、自分には不足を感じてしまう。真剣勝負で大きな失敗をした経験、恋愛経験、ゲームなどにどハマりして廃人になりかけた経験あたりが、ごそっと足りない。これらの不足を、他の方法で、どう補っていこうかと、考えているところだ。

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