板橋とPUNPEEとわたし - 2022年末
新しい環境となった2022年はとてもエネルギーを要する1年だった
自分が現在勤めている株式会社TYLは、先週12/23(金)が仕事納めだったので、ふらふらと2022年の振り返りをしてました。
かしこまってではなく、子どもの面倒見ながらとかサウナ入りながらとか、なんとなくぼけーっとしながらではありますが。
で、今年1番印象に残った出来事はなんだっただろう、ってぱっと思い出すのがPUNPEE。
3月からフルコミットで新たな場所で新たな挑戦に。
しかしながら帯状疱疹からの後遺症で顔面麻痺、5月には重度な副鼻腔炎で顔がパンパンに。
体調も安定しないし、新たなコミュニティでの闘い方に日々の試行錯誤もあり、今年から2人となった子育てと、充実感もありながらもなかなかエネルギーを要する年でした。
PUNPEEの曲、存在に支えられた1年だった。
ライブにも今年は3回行けて、普段も仕事しながらとかもずっとPUNPEEを聴いてた。
IPO4度目の挑戦としての新天地は、もちろん、うまくいくことよりもうまくいかないことの圧倒的に多くてアンラーニング/反省の日々だし、一方、役職ある立場として自分を下げすぎない様に保つのは結構ハードな時間が流れたのだけど、結果、PUNPEEのおかげでとても充実した気持ちで年末を迎えられている。
つまり、2022年もなんとか乗り切れた。PUNPEEのおかげで新たな心境、視野が広がった。
PUNPEE知らない方いると思うので、一応お伝えすると、今やHIPHOP業界だけに留まらず日本を代表するアーティスト。
加山雄三、星野源、宇多田ヒカルとコラボとか、水曜日のダウンタウンのテーマ曲創ってたりとか。
ジャンルとしてHIPHOPに分類されてるけど、ジャンルPUNPEEかってくらい独創的、昔用語で言うとミクスチャー的な。映像もすごい。
今年、12年ぶりにフジロックに行った。
日曜日に日帰り弾丸で。
お目当てはもちろんPUNPEE。
2009年、2010年あたりにドラゴンドラの上の原っぱでやるステージに出演したときは、現地にいたんだけど、スケジュールが合わなくて観れず。
そして月日が経ち2017年。
アルバム未発売ながらフジロックでは2番目に大きいホワイトステージを満員に埋めたあの衝撃、そして現地に行けなかったことをめちゃくちゃ後悔していて、次、PUNPEEが単独でフジロック出演する際は絶対に行くと決めていた。
↓フジロック2017の映像
そんな中、今年、フジロックに出演すると決まって、しかも、フジロックで1番デカいメイン、グリーンステージ。日本人ラッパーとしては初。
仕事も大変忙しい時期だったけど、強行スケジュールで日帰り弾丸で行けた。
とてつもなく興奮したし、嬉しさも楽しさも、そして、なぜか悔しさすら感じるほどの感情の揺さぶりを受けて、このステージを生で観れたのは、おじいちゃん、何歳になっても鮮明に覚えてると思う。それくらいココロに響いた。
最もこの日、「15年前くらいに某アーティストの運転手としてここフジロックに来て、その時、自分の中でなんかスイッチが入ったっていうか、このグリーンステージを目指すって。で、今日現実になった」
講演後のインタビューでは、語りすぎてて映像見たら恥ずかしくなった、というくらいとても多くを語っていて、このMCを聞いた瞬間に自分の感情にもスイッチが入り。
ハイネケンを飲みまくっていたおかげでほろ酔いどころか泥酔寸前だった影響は確実にあるけど、気がついたら号泣したり、笑ったり、「たかだーー!!」って叫んだり、周りからは相当おかしなやつに映ってたと思う。実際、隣のカップルからは笑われた、笑。
フジロック後のインタビュー
そう、PUNPEE、高田とは同じ中学で、卒業してから連絡取るほどの仲ではないけど、中2の時同じクラスだった。
都営三田線志村三丁目駅の近くにある、東京の端くれ、いや、最先“端”板橋区の志村第四中学校の1996年度の2年2組。
担任のS先生はめちゃ怖くて有名な鬼軍曹の様な女性の体育教師で、クラスのメンバーはすごい個性に溢れていて、ちびまる子ちゃんばりにそれぞれキャラの説明が出来そうな面々だったのを強烈に覚えてる。当時は、高木くん、高田、中嶋、恩田(PUNPEEのインタビューやライブMCでも原体験として登場する恩田くん。)ってメンバーがすごい仲良くしていて、自分も席が近くなることが多くてけっこー話してた。はっとりなので、当時は高田からも皆と同じくはっちゃんって呼ばれてた。
当時は当たり前だけどインターネットなんてなかったから、情報感度ってかなり個性が出るところで、当時の自分はファッション雑誌を筆頭に立ち読みしまくって知識を入れていたのをすごい覚えている。
自分のなかで情報感度って当時のイケてる度合いを示す最たるものという認識だったから(中学生なんで顔、ビジュアルが1番なんだけど自分はもうそこでは勝負できないと考えていたw)、
高田から「マーベルっていうのがあってさ」って言って、高田が描いた絵を観せてくれたときに、マーベルどころか、アメコミなんていうジャンルすら知らなかったから衝撃を受けたのを今でも鮮明に覚えてる。あと、当時流行っていたデジモンも一緒にやった気がする。
余談だが、鬼軍曹S先生に恩田がデジモンを学校に持ってきているってのをチクって、S先生に没収されて中学卒業くらいの時に返してもらった気がする。すでにブームは去っていたw
みたいな昔話なエピソードが、PUNPEEの曲を聞いてると、出てくる出てくる。PUNPEEの曲やインタビュー聞いたりしてると、ほんと様々な情景が浮かんでくる。
PUNPEEの名前の由来
この中学時代を共に過ごしたというのはとても嬉しい。そして、すべてのエピソードが事実で盛ることもなくフラットだから同窓会気分にもなる、笑。
“板橋“ってフレーズが頻繁に出てくるのは、板橋出身ということにアイデンティティを持てる日が来るなんて思ってもなかったが、やはり嬉しくなる。
大学卒業した後、2006年くらいに、高田(PUNPEEの本名) はバイトしながらラッパーとしてイベントやったりで頑張ってるしい。って言うのは人づてに聞いていた。
同級生、恩田との原点エピソードを話しているインタビュー↓
↓中学校時代の話とかここまでのエピソード
自分は、最近は年に3、4回程になったけど、大学時代はインディーズのパンクバンドを中心に、毎週ライブハウスに行ったりするほど、音楽を聴くことは好きで、好きなバンド、アーティストがはそれなりにいる/いた。
そんなミュージシャンとして知ったバンドを観ているのと、利害のない学生時代に出会った友人が
「これだけの数の人の心を動かしている」ということ、ココロの刺さり具合の差が凄まじい。
長い下積み時代があっての現在。自分が過去に経験してきた、公認会計士試験や普通の仕事とは異なる、努力だけではどうにもならない世界で、自分を信じて、続けてくることの偉大さ。
全く違う感情が生まれて、それが自分の人生にとって、とってもプラスな存在になることを身を持って感じた。
2018年、35才から、他人の成功やなにかを目の当たりにしても、悔しい感情がなくなってきた、自分は自分で。
それ以前は、知人がIPOしたとか、すごい給料をもらっていたり、偉くなったり、とか見ると、感情が動くことがあった。
それが、経営に携わる様になり色々な厳しい場面を経験したからなのか、年齢からくるものなのか、ちょうど子どもが生まれたからなのかわからないけど。
それが大人になった、とも言えるし、一方で良くない兆候だな、とも感じていた。
あー自分はそれなりに幸せで、他人は他人。
って全てを捉えてしまうと、非連続、ジャンプアップした自身の成長が果たせないわけで。
もっと自分はやれる、やらないと的な焦りみたいなものが失われていく。
自分の人生が出せるインパクト/価値についての目線感が低下していることを意味していて。
今年、PUNPEEのライブを3回ほど参加して(フジロック以外は8月羽田、12月横浜)、
そんな、ここ5年ほど少しずつ感じていた感情のスイッチが入った。
同じ時を過ごしたという事実はあれど、ここまで超有名アーティストに対して、ちょっと恥ずかしいけど、ライバル的な思考が芽生えている。
これだけ多くの人の心を動かしてる という事実に。
自分も会社、組織運営をするなかで、多くの人の感情を動かし、多くの人の良い人生の構成要素となる会社をたくさん生み出していきたい、と。
そのためにとっても重要な、フルコミットで良い会社としていく過程を経験し、成功体験を積むこと。
それが自分の今のステージ。
アーティストが曲やライブを創るにあたってそうである様に、自分にとっては、日々の業務でこなすタスク、社内外の方々とのコミュニケーション、振る舞いの一つ一つが良い会社を作って幸せな人を増やすという「作品」を創るための大切な大切な積み重ねなんだな、と。
2023年も、自分は自分のステージで、多くの人の幸せに繋がる様に、素敵な「作品」となる会社が創れる様に、1メンバーという立ち位置であろうと、地道に理想を追求して頑張りたいと思った次第です。
PUNPEEありがとう。そしてこれからもよろしく。
1月の中野公演も楽しみ。