エッセイストになりたい。
面白い。
楽しい。
この人の人生は、こんなにも「歓喜」と「希望」に満ちあふれているのか。
私は、最近「旅行記」、まあつまり「エッセイ」にハマっている。
きっかけは、読書友達からの軽いノリで紹介されたことだった。
だが、そのノリの軽さとは裏腹に、深く、重く、綺羅綺羅とした神々しい沼にハマってしまっていた。
紹介された本は「深夜特急」
数多くのバックパッカーを生み出してきた、伝説的なエッセイだ。
その特徴は、まるでその場所にいるかのような圧倒的な臨場感。
その場所の空気が、熱気が、人々が。
文章から、ありありと、鮮明に映し出される。
まるで、その場所の空気を閉じ込めたカプセルのように香ってくる。
文章の中に、これでもか!と空気を押し込んで、本にして蓋をしたんだろう。
その「空気と熱」という文章では伝わるはずのない情報が、東西南北の人々に響き、心を震わせた。
その心の疼きが抑えられなくなり、「バックパッカー」という大きな挑戦に飛び出させたのだろう。
見事、としか言いようがない。
本から伝わってくる、「空気と熱」に集中すると、驚くほど簡単にわたしは想像の世界へと潜り込んだ。
そして、「深夜特急」を読み始めて10ページほどで、私はアジアにつながるどこでもドアをくぐっていた。
その世界の力強さと、生命力に、私は圧倒された。
空気、と行っても伝えるものはたくさんあるのだと、確信した。
「熱」「感情」「浮かれ」「風」「温度」「湿度」「視線」「思い」
こんなものが、溶け込んでいる。
悪口をいう人の周りには「嫌な空気」が漂っている。
なにか、どんよりとした、薄黒いジメッとした空気だ。
やはり、存在したんだ。
気のせいなんかじゃない。
日本ではありえないような光景を私は垣間見ることができた。
そして、なんとか本を閉じ、感傷に浸る。
感傷、というなの思い出。
これほどにインパクトを受けた本はなかなか出会えない。
そして、最近他のエッセイも読んで見るようになった。
「エッセイの呪い」だ。
エッセイ、とつくものに私は惹かれるようになった。
本にもnoteにもエッセイはたくさんある。
その中でも、私が魂を魅了されたのが「日常の様子を描いたエッセイ」だ。
なぜか。
それは、「私が見ている景色」と「文章が見せてくれる景色」があまりにも違ったからだ。
私の見ている景色はすみずみまで注目することはない。
風のなびきに。
雑草の力強さに。
雨の運んでくる空気に。
感動することはない。
だが、エッセイは違う。
そのエッセイからは、人生をこれでもかと楽しみつくす人の心が書き記されていた。
私は思った。
「こんなふうに、毎日に思いを馳せながら生きていけたらどんだけ素敵だろうか」
毎日を、まるで宝石のように大切に、思いを馳せながら生きていく。
その積み重なりは、私の後悔のない人生につながっていくのだろう。
人々はそれを、「幸せ」と呼ぶのかもしれない。
雨の運んでくる鼻腔に充満する空気。
水滴を踏ん張りながら支える草。
歩くたびに、「パシャッ」と湿度には似合わない、かわいい足音がする。
そして、雨でより一層美しく見える紫陽花を眺めながら、今日は何をしようかとぼんやり考える。
まるで雨に浮かんでいるようだ。
今書いたのは、私の朝だ。
最初のエッセイ、と言えるだろう。
だが、この短い文を書いただけでも、私の胸はときめきに満ちた。
今まで、恥ずかしがって見せてくれなかった「日常さん」の顔が見えた。
こんなに美しいなら、いつでも見せてくれればいいのに。
そう切実に思った。
そして、同時にこうも思った。
「エッセイストは、この美しい顔をずっと見ているのかもしれない」
エッセイを書き続けることで、「エッセイ的視点」を手にいれ、毎日をエッセイのように鮮やかに捉えることができるようになるのではないだろうか。
この日常が、もっと美しいものに見えるのではないか。
もっと、幸せな生き方につながるのではないのか。
そう考えると、ワクワクとドキドキとキラキラと羨ましさの混じった、「憧れ」の親戚のような感情が湧き立ってきた。
決めた。
私は、エッセイストになろうと思う。
気が向いたとき。できれば毎日エッセイを書いていきたい。
最後にエッセイの語源を紹介して終わろう。
十六世紀に出版されたモンテーニュの著書『エセー』(Essais)によると エセーは「試み」という意味だ。
私は幸せを、エッセイで試みていこうと思う。
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