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歴史・スポーツ・短編小説

 ホルガ―北壁(登山短編小説)

 キラキラと光を発しながら氷の粒が妖精のように目の前を舞い上がっていく。
 一日中攀じ登っているとと上下の間隔が鈍くなる瞬間がある。まるで水平な床を四つん這いに進んでいるような錯覚に陥ったり、ひどいときには崖下を覗きこんでいるのにまるで地球を見上げているような錯覚に陥ったりする。生と死が肩を並べている世界。
 アルプス山脈ホルガー北壁。1963年。
 好天に恵まれる日が続いていたが、その日は北から氷壁にぶつかった風が吹き上がり、氷壁と源岡(げんおか)の体のわずかな隙間を走り抜けていく。風はとどまることなく足元から吹き付ける。まるで天へと誘われていくかのようだ。このまま手足を壁から放せば山頂まで運んでくれるのではないか、一瞬、そんな錯覚に襲われる。
 下にいる岸谷がロープを引っ張ってくれと合図を送ってきた。我に返る。
 源岡は両足に神経を集中させ氷の壁を踏ん張り、片手でロープを手繰りよせた。五メートル下からロープにつながれた岸谷が一歩、また一歩と攀じ登ってくる。アイゼンの爪とピッケルの先を強く氷に突き刺し、相棒の手足が氷をとらえる音に全神経を集める。少しでも異常な音を感じれば体中の筋肉を指先とつま先に総動員して岩にしがみつかなければならない。こうして一人がブレーキとなりながら、交互に登っていけば、時間はかかるが滑落の危険は減る。しかしブレーキに失敗すれば、道連れとなり数百メートル下の奈落の底へ叩きつけられるのだ。
 平均斜度70度の氷の壁。ほとんど垂直に切り立った氷壁は人間を寄せ付けることのない悪魔の壁。多くの熟練登山者の命がここで散った。
 冬のホルガー北壁をやる。
 そう心に決めてから7年。源岡は保険の営業職を続けながら週末になると大学時代の山岳部の後輩・岸谷とともに冬山に籠っては訓練を重ねてきた。
 単独であの壁は無理だ。ペアリングだ。
 相棒に後輩の岸谷を選んだのは、彼が登山雑誌の編集者をしていたからだ。
 ホルガ―での三日目の夕刻、半畳ほどのスペースを見つけ、二人は簡易テントでビバーク(仮泊)することにした。
 体を岩に縛り付け、二人並んで座り時間が過ぎるのを待つ。チョコレートを湯に溶かして体に流し込むと勇気と活力が腹の底から湧いてくる。外は音をなくした世界。
「この天気なら明日の午後には登頂ですね」
 岸谷の声が弾んでいるのがわかる。
「日本人初のホルガ―北壁ですからね。話題になります」
「もう記事の構想を練っているのか。気が早いな」
 テントから顔を出すと眼前に満点の星が広がる。
 牟田口は今頃どこにいるだろう・・・。ヤツもこの壁のどこかでビバークしているはずだ。
 ライバルの姿を星空の中に思い浮かべる。
 同じ大学の山岳部の同窓であり、かつては命を預けあった盟友だった。二人で大学を二年間休学し、南アメリカ大陸を山から山へと渡り歩いた。ヤツの卓越した登山技術、運動能力、低酸素と極寒に順応する体質・・・。山を登るために生まれてきたような男だ。
「牟田口さんは我々より二日は遅れているはずです。初登頂は我々に間違えありません」と岸谷。
 たとえ初登頂であっても、むこうはソロ(単独登頂)。この困難な壁を一人で…。牟田口はペアに足を引っ張られて登頂を断念した苦い経験を何度もしている。だからソロを選ぶようになった。
 確かにヤツの能力からすればソロでもいけるかもしれない。
 山の声を聴け
 それが牟田口の口癖だった。山と対等に向き合い、語り合えば危険は自然と遠のいていく、と。源岡はいまだにその域に達することができない。ヤツを超えることは決してできないことを改めて思い知らされる。
 壁面をかぶせるように張っただけのテントの中で源岡と岸谷は体を寄せるように座り、目を閉じた。
 卒業後、牟田口と距離を取るようになったのは慶子を巡ってだ。恋敵となってからは互いに命を預けることはなくなった。
 実はな、と源岡がつぶやくように言う。
 これを最後に山から足を洗おうと思っている。
 隣の岸谷から返事はなかった。
 結婚するんだ、俺…。
 源岡の言葉を予想していたかのように岸谷は、そうですかと言った。
 源岡は慶子の顔を瞼にに浮かべた。
 一年前。源岡は慶子を連れて長野県桐ガ岳にいた。夜明け前の山小屋を抜け出して30分ほど歩いたところにある△滝へと足を向けた。そこは冬になると凍結し、ホルガー北壁の訓練にももってこいの場所だった。
 源岡は夜明けの薄い光の中で打ち付ける滝を見上げ、ホルガ―の氷壁を空想する。慶子には伝えていないが、源岡にとっては夏のピクニックにかこつけて、ホルガ―偵察も兼ねていたのだ。
 背中に気配を感じ、源岡が振り向くとそこに慶子がいた。
「なんだ、もう起きていたのか」
「ついてきちゃった…」
 それだけのやり取りだった。
 半年後、源岡がプロポーズすると慶子から意外な言葉が返ってきた。
 聞いて、源岡は言葉を失った。
「あなたはいつか山で命を落とすわ。あの時そう感じたの」
 いつも冷静なあなたが山に入ると人が変わる。岩壁の前では何かに憑りつかれた目になる、慶子は冷たい目でそう言った。
 山を辞めることが結婚の条件なんだ。
 源岡の言葉に岸谷はやはり無言だった。
 
 翌朝、細かい雪が舞っているが風は弱い。視界もまずまずだ。
 これなら行ける。うまくいけば今日の午後にも登頂できるかもしれない。   
 自然と四肢に力が入る。体が軽い。まるで水平な床を四つん這いで進んでいるような気分だった。崖下を覗いてもまるで地球を見上げているかのように重力を感じない。
「ちょっと早いんじゃないですか」思わず岸谷から声がかかる。こういう時が危ないのだ。調子に乗って進むと手元足元が狂う。一瞬の油断が命取りになる。ここは生と死が親しく隣り合ってる世界なのだ。
 これが最後の山…、
 日本人初のホルガー北壁登頂、
 その思いを胸に、ピッケルを握る。
 二人は交互にブレーキとなり、氷壁を一歩一歩と登りはじめた。
 昼に差し掛か過労としたころ、急に視界が悪くなり、風が吹き始めてきた。二人は声を掛け合いながら慎重に上を目指す。
 と、右手の方向から何か聞こえる。鳥の鳴き声か? 二人は耳を澄ました。
「人の声だ」と言う岸谷に源岡は頷く。
 突き出た岩陰で姿は見えないが、我々のハーケンを打つ音に反応したのだ。
「助けを求めているようだ」岸谷が呆然とした声で言う。
 源岡が慎重に水平移動し、様子を見に行くとスコットランドからの二人組だった。
 一人が落石に打たれて滑落し、足を痛めたという。回復の見込みがなくここで助けを待っているのだと。
 三人の力を合わせれば一人のケガ人を下すことができる。
 岸谷がスコットランド隊に言う。「明日まで待ってくれ。我々は登頂目前だ。登頂してからあなた方を救助する」
 それを聞いた源岡はすぐさま返す。
「いや、無理だ。衰弱がひどい。このままでは命を落とすことになる。すぐに降ろそう」
 岸谷は呆れたように源岡を見つめた。
 
 牟田口が登頂したのはその三日後だった。
 帰国すると「ホルガー北壁、日本人初登頂」のニュースが国内を騒がせていた。メディアは大きく取り上げ、牟田口は取材に追われていた。
 しかし、奇妙なうわさが流れてきた。
 牟田口が一切の取材を拒否して、姿を消したという。
 その三か月後。
 二人の結婚式で岸谷がある人物からの手紙を読んだ。
『正直に言おう。俺がホルガ―登頂を果たした前日のことだ。俺は君たちがスコットランド隊の救助にあたり下山していることろを見た。しかし俺はそれを見なかったことにした。ひたすら目の前の氷に集中し、見なかったことにしたのだ。山の声は俺をなじった。しかし俺はその声にも耳を傾けなかった。俺にこのメダルを持っている資格はないのだ。』

 

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