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毛皮産業等についての考え方

Twitter上にて、動物愛護の観点から私の活動に対する疑問、また毛皮産業等に対する考え方についてのやりとりがありました。

限られた文字数では言葉足らずになってしまい、無用の誤解を生むかと思いましたので、noteにて私自身の考えを述べさせていただきます。

ここでは、おもに毛皮産業を中心に、「人間が動物を殺すこと」についての考えをまとめていきます。

(先方とのやりとりは、この文の末尾にまとめています。)

毛皮産業等についての考え方

毛皮産業について、私は「個人の判断で毛皮を使用したくないのは問題ないけれど、『動物がかわいそう』という理由で毛皮産業そのものを否定することはおかしい」と考えています。

個人的な感情・価値観は尊重されるべきですが、それだけを理由に伝統ある文化・産業を否定するのはおかしいと思うからです。

私の考え方に対して、他の方から「インドのカースト差別も、『伝統』だからとの理由で肯定するのか?」というような疑問が出されました。

カースト制の成り立ちについてはあまり詳しくないですが、少なくともそれによる差別については、明確に否定すべきと考えます。

同じ人間を差別することは、倫理的に間違っていると考えるからです。

「では、動物に対しては倫理は適用されないのか?」という疑問を抱かれるでしょう。

私は、毛皮反対派と賛成派の意見の対立は、「人間が動物を殺すことをどこまで許容するか」という線引きの問題にあると考えています。


線引きの問題
往々にして、こういった議論は「動物を殺すことはいっさい認めない」と「人間の都合で好き勝手に動物を殺してよい」という二極に単純化されて広まってしまいます。

そうした極端なイメージの流布は、双方にとって不本意なものでしょう。

私の意見は「人間の経済活動のために動物が殺されることは許容できる」という考えに基づいています。

毛皮反対派の意見として「食肉とは違い、毛皮は人間が生きるのに必要でない。

だから認められない」との考え方が多いように思います。

この線引きのズレが意見対立の原因になると考えるのです。

毛皮産業には多くの方が生活の糧としています。

「金のために動物を殺すこと」を悪と捉える方がいらっしゃいますが、私はそうは思いません。

人間は、生きるためには収入を得ることが絶対に必要です。

これは「食べること」と同じく人間にとって根本的なことであって、非難の対象とはならないと考えます。


感情の問題

上記の問題のほかに「殺される動物がかわいそうだから」という意見もあります。

「かわいそう」という感情そのものは否定しませんし、「かわいそうだから個人的に毛皮を使わない」という立場は尊重されるべきです。

私が疑問に思うのは、「人間にとって愛らしく見えるかどうか」で命の線引きがなされている点です。

たとえばネズミが駆除されることに反対する意見というのはあまり見かけません。

「人間に害をなすから仕方ない」という考えもあるでしょうが、現代の日本では人間の命の危険につながるような病気を媒介することはほとんどありません。食べ物や電化製品のコードをかじられて困るくらいでしょう。

少しの我慢で、ネズミと共存するのも可能だと思います。

にもかかわらず、毛皮だけが激しく糾弾されるのは、「キツネが人間から見て愛らしいから」だと感じます。

繰り返しますが、「可愛い動物が殺されるのは嫌」という理由で個人的に毛皮を使わないのはまったく問題ありません。

ただ、その感情を毛皮産業および毛皮の愛好者に押し付けるのは間違っていると考えるのです。

私がツイッターで挙げたフォアグラの例は、自分自身がどう行動しているかの実例です。
私にとってフォアグラは「食べなくても困らないし、特に食べたいとも思わないもの」です。

だからといって、フォアグラ生産が悪だと考えているわけではありません。

「自分の嗜好と他人の嗜好は違う」という、ごく当たり前の考え方です。

「毛皮はよくてフォアグラがだめなのはなぜ?」と言われれば、個人の好き嫌いとしか答えようがありません。

矛盾を含む感情の結果であることを自覚しているからこそ、他人に価値観の押し付けをしたくないのです。


最後に

拙い文章を最後までお読みいただき、ありがとうございます。

自己欺瞞と感じられるかもしれませんが、私自身も動物が好きで、現在の活動を続けています。

私を批判される方々も、ご自身の価値観に基づいてのことと思います。

自分の価値観が絶対に正しくて、批判意見がすべて間違いだというつもりはありません。

この先、今とは考え方が変化していくこともあるでしょう。

ただ、私は自身の価値基準に基づいて行動していることをご理解いただきたいです。

ご質問等ございましたら、いつでもご連絡ください。

Twitterでも構いませんが、複雑な問題はHPのメールフォームよりお問い合わせをお願いいたします。

2015-11-06
アメブロの記事から転載しています。

Twitter上のやりとりの内容

以下は、Twitter上でのやりとりになります。

風鷹
私はフォアグラを食べられません。
生産の現場を見ると「鳥がかわいそう」と思ってしまうから。
だからといって、フォアグラ料理を提供する店に抗議しようなんて思いません。
個人的な感情を理由に、伝統的な食文化を否定するのは間違っていると考えるからです。

オリジナル デビー様
「毛皮生産のために飼育されたものになります。毛皮製品については、反対する意見がたくさんあることは承知しています。私としては、古くから続く文化であり、「かわいそう」という理由で否定するのはおかしいのではないかと思っています。」
なぜですか?

風鷹
個人の感情を公の場の議論に持ち込むことに違和感があるからです。
「動物がかわいそうだから『自分は』毛皮製品を使わない」というのは、まったく問題ないと思います。
けれど、そうした感情論で毛皮産業を否定するのはおかしいです。

オリジナル デビー様
ご回答ありがとうございます。成る程です。では、あなた自身は毛皮の生産の為に動物が殺される事に、何ら感情は抱かない、と言うことでしょうか?

風鷹
毛皮でも食肉でも、動物が殺される現場を見て、いい気分はしません。
毛皮産業に従事している人でも、動物を殺して楽しく思うわけではないでしょう。
人間として当たり前の感覚だと思います。
でも、感情だけを理由に文化そのものを否定するのは違うと思います。

オリジナル デビー様
毛皮の生産過程はご存知でしょうか?フォアグラがかわいそうで食べられない方が、毛皮の生産の為に殺された動物の頭をご自身の作品に使用されると言うのは、とても違和感を感じます。

オリジナル デビー様
伝統や文化って、それぞれの時代の世論によって、発展したり、淘汰されたり、変化するものです。そしてその世論とは結局、個人の感情が多数集まったものなんですよね。ですから、僕は、感情で伝統文化を否定してはいけないとは思いません。

風鷹
「感情が集まって世論になる」というのはその通りだと思います。
ですが、フォアグラの例でいえば、私は自身の感情が矛盾をはらんだものであり、他者を否定する論拠にはなりえないという自覚があります。
自分の価値観を持つことは大切です。ですが、「自分が嫌だから他人を否定する」というのは、さまざまな価値観が存在することの否定に繋がると思うのです。

オリジナル デビー様
①貴方の意見もよくわかりますし、とても大切な事です。しかし、何事も程度問題ではないでしょうか?「自分は良くないと思うけど、他人を否定してはいけない、否定してはいけない」これ、多分そのうち病みます。そして世界は無法地帯になります。

オリジナル デビー様
②あなたの考え方も、一つの価値観の否定になってますし、それをやっちゃいけないとは僕は思いません。「感情的」になるのは良くないですが、「感情に基づいて行動する」事は決して悪い事ではないと思います。と言うか、実はそれがほぼ全てだったりしませんか?

オリジナル デビー様
③そして、フォアグラがかわいそうだから食べられないあなたが、毛皮の生産の為に殺された動物の頭をご自身の作品に使用する、これはあなた個人の問題なので、伝統文化云々は関係ないでしょう。なぜですか?



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