(2) 承認欲求
「固っ!!」
教育の世界は、私たちとの距離があり過ぎる。よく分からない。
「あなたに褒められたくて」である。例外なく誰もが秘かにそう思っている。誰かに褒められると元気が出る。何でも出来る気になる。褒められなかったり、知らん顔されると悲しい気持ちになり、切ない。
人を褒めることは大切なことであり、褒められることは力になり生きる上では何よりのことであるのは確かだ。何でもがそうである様に、「過ぎること」は決して良くない。その最たるものが「褒められたくて」の過ぎることである。
褒められたいばかりに周りに過剰適応することになる。視点は相手に向き、周囲に自分を合わせ迎合することになり過ぎる。確かに相手に共感し、望むことを読み取り周囲の空気を読むことは必要なことではある。しかし、過剰になるのは危険ですらあるのだ。
自分を消し去ってしまう危険である。自身の抑圧である。外向きの自分と本来の自分とに大きな落差が生まれる。褒められたいばかりに、抑圧した本来の自分の意志・気持ちは圧力をかけ蓋をすることになる。いずれ圧力をかけられた本来の自分の気持ちは熱を持ち、いつか季節はずれの爆発をするか、身体に症状となって表れるはずである。
三十二年前まで僕は高等学校の教壇に立っていた。カウンセラーであり国語を担当していた。深夜、「死にたい」と自宅に電話があり飛んで行くことがしばしばあった。いつ何時呼び出されるか?分からないから、一日の終りに酒でも呑むか、という習慣がない。生徒たちは本当に健気で純粋で何ひとつ言いたいことはなかったが、やっかいなのは同僚・先輩の先生たちだった。
生徒たちは信じられない校則によって縛られていた。簡単に退学という処分が出されたり、校則違反によって長期の自宅謹慎が言い渡されたり散々な有り様だった。若気の至りか?怖いもの知らずからか?職員会議で生徒の懲戒処分の議題になると、長々とその処分の不当さをしゃべりまくった。それでやめておけばいいものを、そんな教育の場にしてしまっている先生たちを批判までした。当然、先輩の先生は怒りを込めて、「先生の主張は時期尚早で、理想を語っても何もならない!!」と、一笑に付された。そのたびごとに一笑された。
あなたたちのような先生方に褒められたくないし、承認されなくても構わないからとばかり、「理想を語ることが教師であり、子どもたちの権利を守ることが教師の役割なんだから、なんでいけないんでしょうか?時期尚早って何ですか?まだ早いって意味でしょ?国語担当だからよくわかります(一同爆笑)、理想を求めることが早過ぎるとは何事ですか!!」背広も着ず長髪で、べらんめえ調でやんちゃした。一貫していたいのだ。本来の自分の気持ちと表出しようとする自分とを・・・。
本来の自分を抑圧してそれで承認されても全然気持ち良くないから、ありのままでいたいと思う。確かに組織の中で上役がいて同僚がいて、本来の自分の気持ちを出すことがいかに難しいことか本当によく分かる。しかし難しいからと言って、どこかで季節はずれの爆発(ほとんど家庭に帰ってから家族に、というのが常である)をしたり、身体に症状を出したのでは本末転倒ではないだろうか。
「私の評価」は、この私が自身でするものである。人様が、私への評価をどうみているか?人はもともと関心ががないのであり暇ではないから、思うほど人のことなど考えていないものである。人が私をどう思おうが、私への評価は私がするのである。かけがえのない唯一無二の私であるから・・・。過ぎないで欲しい。人から承認されるかどうかに・・・。怯えないで欲しい。唯一無二のあなたのままに・・・。