(12) 智子 ー ヨッさん
※2022.05.20 17:23 一部修正更新しました。
行楽シーズンを少しはずれた車内は、空席もいくらかあって智子にとっては気が楽であった。リュックを棚に載せると窓際に腰を下ろし、時計に目をやった。予定通りなら十五時半には新宿に着くはずだから夜まで少し休んで、博多に転勤になるK氏の送別会には出席できるなと思った。
少し長めの発車のベルが鳴り終わり、ゆっくりと列車は動き出した。智子はヨッさんの小屋のあるM川峠の方向に目をやり、軽く手を振ってみせた。「ヨッさん、ありがとう。また雪の降る前に来るよ」と、小声でつぶやき何かを思い出すかのように目を閉じた。鄙びた雰囲気のM川荘や辺り一面に咲いていた高原植物群、M川峠から眺めた大菩薩連嶺の山々、秋を思わせるようなひんやりとした空気、そして何よりも「また来いよ」と、満面の笑みで送ってくれたヨッさんのことなどが思い出された。
今年の夏季休暇は小樽だ!と張り切っていた智子の元へ、こんな絵葉書が届いたのだから大変な思いをした。
「そんなことならもっと早く言ってよ。小樽行きを楽しみにしてたんだぞ。キャンセル料二万円は痛いじゃないか」と不満を言いながらも、智子はさっさと友人たちに訳を話し、キャンセルの手続きを済ませた。まんざらでもなかったのには、少々理由があった。
大学へ入学した四月も終わりの頃、珍しく都内は大雨が続いた。傘をさしていても横殴りの雨は容赦なく降りつけ、歩くことさえ容易ではない程だった。そんな中、市ヶ谷駅からずっと智子の前を傘もささず、登山用の本格的なポンチョを着て、登山靴を履き長い脚を活かして大股で歩く青年がいた。
智子は一週間程前、大学のワンダーフォーゲル部に入部届を出していて、今日は新入部員受付当番にあたっていた。十時から午前中が当番で、雨の中先を急いていたのであったが、思うように先に進めず苦労していた。智子は遅れまいと先を急ぎ、ポンチョの青年を追い越しながら、この人も山が好きなんだろうと、勝手にそう思った。やっとのことで十時少し前に着いた智子は、受付の準備をして椅子に腰を下ろした。濡れたスカートが気になったのか、バッグからハンカチを取り出してはみたものの、無駄なことであった。
「こんにちは。西山良太と言いますが、ワンゲル部に入りたいと思って。良いですか?」
ポンチョの青年だった。
どういう訳か、智子の胸がドクドクと打った。
「あっ、あなたは先程の僕を追い越していった・・・急いでいたのはこれでしたか」
「ヤダ、何で私だとわかったんですか?ここに学部とクラス、氏名、そして住所を書き込んでください」
「あのー、住所はまだ決まっていません」
これがヨッさんと初めて出会った日に交わした会話であった。
智子は良太を変わった奴だと思ったし、同時に強く惹かれるものを感じた。
山登りの邪魔になるから・・・と、三年の春、ヨッさんは大学を辞めてしまった。それから先、消息は途絶えてしまったが、部員たちからは西穂高で会ったとか、松本でバイトしているらしい等と情報は智子に寄せられていた。
「木彫りでもしながら、小屋番を一生続けられたらな・・・」
と言うのがヨッさんの口癖だったから、バイトをしながら山登りを続けて自分に合った山に入って、小屋番をしたいのだろうなと智子は思っていた。そんな智子の元へ届いた、五年ぶりのヨッさんからの便りは、ワンゲル部でも二年の春に登ったことのある山梨M川峠の小屋からのものであった。今回の山行きは、そんな智子にとって久々の山を楽しむチャンスでもあったが、憧れだったヨッさんに会える機会でもあった。
M川荘は昔のままだった。ランプの下で、独特のテンポでヨッさんは話した。久しぶりの知人の訪問がそうさせたのであろう、いつものように無口ではなかった。
「便所の汚物の始末が一番困る。二、三日飯が喉を通らんのさ」
から始まった良太の話は、智子にとって都会生活では考えられないことであり、新鮮で羨ましい話ばかりであった。
「梅雨時、下界ではうっとうしい季節だと思うけど、山はとても良い時を迎えるんだよ。レンゲツツジが満開になって、まるで赤いジュウタンを敷き詰めたようになる」
その様子はまるで子供が聞いて欲しい話を一気にしゃべるかのように、いつにもなくヨッさんはよくしゃべった。
「ヨッさんは雨が好きだもんね」
智子は輝いた目をしている良太をからかった。
「まあね」
「冬は厳しいよね」
と、智子は良太を心配した。
「そう、確かに厳しいね。でも雪が風に吹かれてサラサラと音を立てるんだ。耳を傾けさえすれば、自然はその豊かな表情を知らせてもくれる。霧氷は音が良い。木についた氷が朝日で溶けて落ちる途中、その氷同士がぶつかり合って、ポロンとまるで木琴のようだ」
智子は良太の話に涙ぐんだ。何故なのか智子にもよくわからなかった。
言葉に詰まった智子は、うす暗いランプの光の向こうに並んだ木彫りをしばらく見つめていた。
「あれ、ヨッさんが?」
「うん、柔らかいランプの光は木彫りに最適なんだ。登山者が休んだ後、僕の時間はほとんど木彫りにあてている。妙に心が落ち着いて・・・そんな時間がずっと夢だった」
思い出すように、一言ひと言噛みしめながら良太は言葉を選んだ。智子自身も良太の世界に触れ、ゆらぎが自然と安らぎに変わるのを感じていた。智子は何を言えばいいのか言葉に困った。これほどまでに都会の生活は、人から感じることや言葉を奪ってしまっているんだとも思った。
列車が新宿に近づくにつれて混み合ってきて、ほとんど空席は無くなっていた。智子は、無理せず生きようとしている良太に敬意を感じたし、屈託のない満面の笑みが素敵だと思った。
「本当に冬になる前にまた行くか」
と、智子は独り言をつぶやいた。
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