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(16) 自分を知る ー 今を生きる Part3

朝、歯をみがきながらふと鏡を見る。よせばいいのに必ず見る。落胆することがわかっているのに、である。確かに老人の顔である。目は上瞼が下がり過ぎている。ついこの間まで二重で大きな目が特徴だった。顔はシミだらけである。二十代前半から三十代半ばまで、ウィンドサーフィンに明け暮れた。そのせいで年中日焼けは当たり前だった。どうもその罰らしい。人前に出るのを躊躇うくせに、外に出たがりである。こんな様に、外見の自分は鏡さえあれば容易にその姿を写し出せる。簡単なことだ。

さて、自分の内面となるとそうはいかない。人は誰でも外見が気になり、外出の際は何度も繰り返し鏡を見て確認し、外では窓に写る自分の姿をナルシストでなくても見たりするものである。確かに人の目に映る自分がどうなのか気にして、外見が気になる。しかし外見はこの際、それほど重要なことではない。その見え難い、日頃は知らないふりをしているその自身の内面こそが、私たちが生きていくうえで重要な要素なのである。

”自分を知る”とは、瞼が下がったただのシミだらけの顔だとかは全然関係ない。”自分を知る”ことの手始めは、まず自分が持っているだろう潜在的な”不安”の大きさを知ることからだ。ひと言で”不安”だと言うが、その不安がどれ程の大きさであるか、このことが重要なのだ。まずは一日の生活の中で”不安”だと心の中で思う回数をカウントすることである。夜休む前に振り返って
今日は何回だったか・・・と。一週間続けてみると、おおよそ自分の不安が一日どれ位なのかが分かってくるものだ。次の週、自分が”不安”を感じたその中身を整理して、どんな内容で、どんなシチュエーションなのかまとめてみることだ。次は、そのレベル、要は不安の重さ・大きさがどれ程のものなのかを少し周囲を見渡して、学友とか同僚との差に注目して欲しい。無駄話などしている際、困った話のついでに”不安”もついてくるはずである。そんな他人との比較の中で、自身の”不安”の内容・シチュエーション・重さ・大きさがおおよそ把握出来るものであろう。

こうして自身が持っている不安の度合いがある程度理解出来る。私たちが今までに傷つき、経験する中で作られた不安は、いつも抑圧して無意識の底に蓋がなされているかのように在る。人に会う・人から見られる・事が起きる・事件に巻き込まれる・世相を感じる・先を思う・・・などあらゆる時に、無意識に底に蓋された不安が目を覚まし、それらに投影させ、あらゆる事に不安がるということである。それは言い換えれば、あらゆる事をその潜在的な不安でコーティングするようなものである。だから、いろいろなことに対して感じる不安は、人によって大いに違ってくるのである。同じ事に出会いながらも不安の度合いが違うのは、潜在的に無意識の底に在る不安の大きさに比例して現れるものに過ぎないからである。

例えば、核戦争・天災・病気・将来の生活・仕事・子供の成長・人間関係など、私たちを取り巻く状況は確かに安心できるものは何一つない。それらを思い、悩み苦しむ。人間らしくこれが愛しいのだが、しかし、出来れば必要以上に苦しむことはないし、笑っていられるものならそれに越したことはないのだ。

(7)心の幽閉」の回で書いた、イナゴに稲を全滅にされたお百姓さんの言葉を思い出して欲しい。
「自然を相手にしていたら、こんなことは起きるかもしれない。その覚悟をワシはしている。・・・ワッハッハ!」
と、笑って済ませているのだ。一年の全収入を失ったのにである。起こるかも知れない事を想定し、心・財産の準備をして腹を決めているのである。これは、心理学で言う”不安の合理化”であり、”認知の歪みの修正”であり、”不安の回避の為の準備”でもある。”潜在的不安”は様々な影を私たちの生活に落とす。不安で物を見、感じ、受け取ることになるから、”思い込み過ぎる”不安だらけで、なかなかその時を楽しめないことになる。受け取ろうとする事柄に”潜在的不安”をあらかじめ投影してしまうから、事実より強くマイナス方向へ思い込んでしまう。それはまるで、”不安”が練りこまれたレンズの入ったメガネを掛けて外界を見るということに等しい。

私は全国あらゆる所に出掛けて人に会う。メディアで紹介され、私の心が動かされた人たちに会いたいと思うからだ。そのメディアに連絡して先方に伺ってもらい、アポイントを取った上でお会いする。イナゴのお百姓さんもその一人である。今まで三十人以上の方にお会いした。何を知りたいのか?何を学びたいのか?それは”覚悟ある構え”を学びたいのだ。神経症である私は不安だらけだからだ。

今はもう譲ってしまったが、十五年間程キャルルックのビンテージビートルに乗っていた。何しろ可愛らしく、よく走った。さすが工業技術の高いドイツの車である。ビートル仲間の一人が、レストアのついでにポルシェ911のターボエンジンをビートルに載せ替えた。フラット4のポルシェエンジンはビートルに容易に載せられるのである。排気量が違うのだが、さほど大きさは違わない。車検の前にテスト走行するとのことで、テストコースへと向かった。結果、散々な目にあった。横転して車体は無残にも壊れた。ドライバーは傷一つなかったことが幸いであったが・・・。考えても見れば当然だ。元の1600ccのエンジンに見合ったシャーシに足回りを組んであるビートルに、
ポルシェの高馬力の上ターボが付いたハイパワーのエンジンで加速したのでは、あらゆるボディーの部分は追いついて行けない。当たり前のことである。
「何でひと言俺に相談してからにしないのだ」
と、言いたいところだが、私はテスト走行に積極的に賛成した一人なのである。ビートルは自分のボディーが1600cc用で、たかだか50馬力程度のエンジン用であることを忘れて”自分を知る”ことが無かった。知らないが為に、高馬力のポルシェエンジン搭載を許してしまったのだ。いやいや、ビートルには何の責任もない。オーナーの無知だけが問題なのだ。テスト走行のカーブでリミットの加速をしたのも彼自身であり、傷一つしなかったのも彼だ。悪運の強い男なのだ。

自分の不安はどの程度なのか。これが”自分を知る”一番大切なことである。自分の不安を練り込んだメガネを掛けている自分であることも知るべきであり、それに比例して大いなる思い込みをしてしまう自分であることを知ることが急務である。”不安”に苛まれる日々の中で、人間らしい可愛い自分であること、それを認めた上、”潜在的不安”がする悪さを予測し、その度ごとに思考・感情の合理化・修正を図ることだ。いやいや、難しいことではない。ネガティブになりがちなのを、ポジティブに書き換えるだけのことである。
不安に圧倒されないで、ここの今を生きる道はそこにある。覚悟を決めて、腹を据えて、過去・未来に圧倒されずここの今を生きて欲しい。”人生は楽しんでなんぼ”だから・・・。


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